見出し画像

ありがとうが言えない人間

突然の悪口記事かと思われたかもしれませんが、いいえ、これは私のことです。

と、いっても私と、礼節を重んじる教育をしてきた両親の名誉のためにいうと「お礼」は言えます。

じゃあなんでこんなタイトルにしたかというと、
ある時「なんでそんな謝ってるの?」と言われハッとしたからだ。
どうやら「ごめん」「すみません」ばかり言っているようだ。
ありがとうを言うにしても、「ごめん、ありがとう」とか。

なので、「お礼」は言えるのだが言わなくてもいい「謝罪」の方が圧倒的に多いんだと思う。
ここは「ありがとうでしょ」と指摘を受けた。

そこで改めて考えてみると、確かに謝ってばかりだなあと。
自分が悪いことをしたらもちろん「ごめんなさい」。
何かをしてもらっても「ごめん」。
いつもちょっとしたことに、どんなことにもごめんすみませんと言っているなと、思い当たる節が多々ある。

自分の中でありがたいことをしてもらった、というより「させてしまって」申し訳ないという気持ちの方が大きいのだと思う。

同じような内容でいうと「心配してくれてありがとう」も言えない。
私バージョンなら「迷惑かけてごめん」になってしまう。

心配かけちゃってごめんね〜!なんて明るく言える友人、本当にすごいなと思う。もちろん嫌味じゃないですよ。
自分が大切にしてもらえているときちんと思える人って、素晴らしいなと思う。

私の場合、自分が心配してもらえてるなんて、まさかそんな、と卑下する気持ちになってしまう。
結局のところ自己肯定感が低いことが全てに影響している。

でも、逆の立場になった時、相手を思ってした行動・発言には「ありがとう」と言って欲しいかもしれない。
ごめんなんて萎縮しないでほしい。それに、自分側も萎縮してしまいそう。いやいや謝らせたかったわけじゃないんだよ!と。

そう思うと、自分がやっていることって自分なりの「いえいえ私なんて」という気遣いであったはずの態度は、相手を傷つける・不快にさせることにも繋がるのかもなと思い直した。
自分の価値を下げるということは、その瞬間に私に価値を見出してくれた相手の価値をも下げる行為と同じだということに、大変恥ずかしいことに最近まで気付けなかった。

たしかに、相手が「ここはありがとうでしょ」となるのは当然の心理だ。

もちろん、きちんと謝らないといけない場所は謝らねばならない。
それでも、もっとありがとうを言えるようになりたい。

心配してくれてありがとう。
助けてくれてありがとう。

あと最早ありがとうを言いすぎる節もある。
もちろん、この文章の流れで書く「ありがとう」なので、無駄なとまでは言わないが「そんなことでありがとうを言わなくていいよ」と言われる部類の「ありがとうだ」。

要するに、さっき書いた「結局のところ自己肯定感が低いことが全てに影響している。」に尽きる。
あとは、ある種捻くれた性格も影響している気もする。もっと素直になろう。
「どうせ私なんて」なんてよく考えたら、良い言い方をして、「自己肯定感が低いのね」であって正直捻くれを極めた発言でもあるだろう。

あと、自分もそう思うから発言に出るとはよく言ったもので、きっと「心配かけてごめんなさい」とか職場で言われた時に「あなたがかけたのは心配じゃなくて迷惑よ」と心のどこかで思ってるのだろうな。本当に無意識の思考で。
言い訳をするわけじゃないけど、こう言われたけど普通に迷惑よねえなんて人に言ったことはないし、自らの意思で前述したようなことを考えていたこともない。
でも、きっとどこかで「自分もそうだから、他人にそう思われるに違いない」という自分の基準があるから、自分も心配かけて〜とか使わないんだと思う。

何から何まで最低だ。


相手のしてくれた行為に敬意を払うという意味でも、
もっと自分を大切にしたい。自分を大切にした発言をしていきたい。
無意識に、だったとはいえ、もっと人に寛大になろう。
無意識に意地悪だったのであれば、意識して優しい人間になろう。

適した「ありがとう」と「ごめんなさい」を使い分けて、相手を不快にせず、自分も相手も大切にした言葉選びをしていこう。

うつ病になったことで「ごめんなさい病」が加速し、夫に指摘されてばかりなのでいい機会だと思ってひとつ自分を変えていきたい。

次はいつか「ありがとうを言える人間」のタイトルで、私の「ありがとう」で周囲の人間が笑顔になれた話を、エッセイとしてここに書けたらと思う。


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?