安部公房論ー全集第一巻から、小説の残低ー
安部公房論ー全集第一巻から、小説の残低ー
㈠
安部公房論を書くにあたり、安部公房全集を購入して、読解を始めている。それに置いて、まずは、第一巻における、安部公房の初期小説に流れる、安部公房の意図を探ってみた。無論、全集の一巻毎に論ずるというのは、些か方法としては、少し特異な形式だろう。しかし今は、この方法によって、述べた様な、安部公房の初期の出発点を探っておくためには、必要な行動なのである。というのも、第二巻の冒頭から、『壁』が始まるため、所謂、『壁』までの、安部公房の小説形体を探ることになり、そのことが非常に重要だと思ったからである。演繹的に言えば、芥川龍之介賞の『壁』における、或る種の文体崩壊が、この第一巻には見られない。非常に埴谷雄高的な文章である。暗く、重く、果てが見えない風景と意識ばかりである。こういった初期の安部公房の小説を取り上げることで、如何にこれらが文体崩壊につながったかを探求してみたい。
㈡
今回取り上げる小説は、『終わりし道の標べに』『牧草』『異端者の告発』『名もなき夜のために』『薄明の彷徨』『夢の逃亡』の、6小説である。まだ、「壁」にぶち当たる前の、安部公房らしからぬ内容と形式だが、述べた様に、非常に埴谷雄高的である。
例えば、『終わりし道の標べに』から。
安部公房の『壁』以降に見られる文章とは、凡そかけ離れたものである。何か、格言の様な言葉の羅列、しっかりした小説構造の中に、パズルの様に言葉が的確に埋め込まれている様に感じる。「終った所から始めた旅に、終りはない。」という文章からは、何か安部公房の小説家としての始まりの予感を感じさせられるし、この「終わりはない」というのは、この後安部公房が見せて来る小説の、安部公房が死ぬまで続く芸術に対峙する決意表明にも受け取れる。「ながすぎた停車」という言葉には、まだまだ書きたいことがあるのに、自己が追い付いていない焦燥感が垣間見れるし、「さあ、地獄へ!」という言葉は、文字通り、芸術至上主義への自己投法が看取出来る。安部公房は、小説家というものが、如何に地獄的職業であるかを、始めから見切って居た様に思われる。確かにこれは、地獄の始まりなのである。
㈡
この『終わりし道の標べに』に先立ち、『牧草』と『異端者の告発』が発表されている。まずは、『牧草』から。
次に、『異端者の告発』から。
この、『牧草』と『異端者の告発』という2つの小説には、自己が神に見放されているという、神への渇望が克明に記されている。もう、小説を書き始めたからには戻れない、アプリオリな自己への遡及困難が、それによって、「時には気が狂ったのではなかろうかと考えるかも知れない」という、地獄への予兆が観られる。また、「いかにも彼らには神があった。」とは、自己がもう神の存在を喪失していることが描かれており、自己の救いのない状況下が坦々と小説では描かれている。この後、『終わりし道の標べに』が発表されて、「さあ、地獄へ!」となるのであるから、地獄への前段階として、この『牧草』と『異端者の告発』があるのだが、その流れは痛切である。ただ、文中、『壁』に見られる文体崩壊は見られず、飽くまで、形式を保った読み易い内容となっていることは、着目して置かなければならない。また、「虚無」だとか、「神」だとかは、この観念的文中で、半ば浮遊し、形而上の意味合いに留まっており、『終わりし道の標べに』の「さあ地獄へ!」で、形而上を微量に破壊していることもまた、重要である。
㈢
続いて、『名もなき夜のために』、からの引用。
ここには、小説家としての、出発点が見て取れる。「僕の心臓のざわめき」などは、執筆衝動の端緒と成り得よう。また、「僕にもやはり書く理由があった。書くということはどういう事なのか、またなんのたあめに書かなければならないのか、そういった不安でもそれだけで充分理由になると思うのだ。」という言葉には、安部公房文学の方法論の始まりが記載されていると思われる。「不安でもそれだけで充分理由になる」というのは、如何に安部公房が、執筆理由の危機から出発し、書くこと、それ自体を書くというスタイルが初期に有った事を如実に語っている。こうなってくると、意味のない意味とでも言おうか、騙し騙し書いて行くという、訳の分からないことを尤もらしく書くというような、埴谷雄高に酷似した方法論が書かれている。これは非常に重要であって、例えばSFなどは、嘘を最もらしく言うという様な、或る種の形而上的架空世界であるから、安部公房が、文体崩壊の『壁』へと近づく最先端がここにはあるのである。また、最後の、「何かを書くつもりでいるのかもしれないし、現に書いているつもりなのかもしれない。」は、もうほとんど、虚無の状態に近い。小説家としての終わりから、小説群が始まったと言えそうな、安部公房が見え隠れする、畢竟、注視せねばならない文章である。小説家の地獄への入り口を通り抜けた安部公房は、どんどん無意味に意味を含蓄させようとする、その姿勢が発見出来る箇所である。
㈣
最後に、『薄明の彷徨』と『夢の逃亡』から。
まずは、『薄明の彷徨』から。これは、昼夜逆転や、夢遊病などを誘発しそうなくらいの、時間間隔の大きなズレを言っているが、こういった、もうほとんど意味不明な内容が、初期のこの頃には登場している。「目が覚めたのは薄明の頃であった。」とは、如何にも小説家の小説の書き出しとしては最適なセンスが見え隠れする。この『薄明の彷徨』辺りから、『壁』へと向かう力学の様なものが知れると思われる。即ち、『壁』に加速する意識が表出されているかの様だ。また、『夢の逃亡』の、「ものの名前など、その本質にくらべれば、影の様なものにすぎぬとあなた方は言うかもしれない。」からは、現象が「もの」へと変化する、初めての安部公房文学の、発言が見て取れる。こうして、安部公房文学は、急加速して、『壁』へと向かうことになる。まさに、夢は逃亡し、小説家として食っていく現実が眼前に滲み出る刹那、安部公房への自由と試練が、待ち構えて居たと言えよう。
㈤
安部公房の『壁』までの、初期小説、6小説について述べて来たが、安部公房論ー全集第一巻から、小説の残低ーとして、これらの小説の残低にあったものは、少しずつ、芥川賞作家へと向かう、文体の傾斜と、小説家としての意識の変遷/意識の自覚、というものであった。「終った所から始めた旅に、終りはない。」から、「俺は一体どちらを待ちうけているのだろう、どちらが望ましいのだろう? たそがれ、それとも夜明け?」という、意識の混沌という流れは、圧巻の一言である。まさに、文体は定位から傾斜し、小説家としての方法論の変遷が、克明に抽出出来たという訳である。しかし何といっても、安部公房の覚悟というものは、『終わりし道の標べに』の、「さあ地獄へ!」という言葉に尽きるだろう。初期小説の全ては、この「さあ地獄へ!」という言葉に収斂されるはずだ。安部公房論ー全集第一巻から、小説の残低ー、として述べて来たが、その残低の、小説内の言葉としては、「さあ地獄へ!」が、一番、相応しく思われる。こうやって、安部公房全集の第一巻をまとめ上げる時、この「さあ地獄へ!」が『壁』に向かったことは、凡そ正しい見解だと信じて止まない。以上で、安部公房論ー全集第一巻から、小説の残低ー、を終えようと思う。