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気付いたらインドの無職になってた件

自由研究が嫌いな子だった。

絵日記、ドリル、読書感想文はこなせるんだけど、自由研究がいつになっても終わらない。

見かねた母親が「自由研究キット」なるものを買ってきてくれて、家族みんなでそれをやる光景は、我が家の夏の風物詩でもある。

小学生の時から夢は公務員一択。卒業式で「パティシエ」や「宇宙飛行士」といった夢を周りが語る中、「おおきくなったら、こうむいんになりたいです!」と叫ぶ我が子を、苦笑しつつも少し嬉しそうに、両親は見ていたのを覚えている。

周りよりちょっぴり頭が良くて、ちょっぴり要領のよかった自分は、そこからスイスイと学校という名のプールを泳いでいき、気付けば大学生になっていた。

しかし、そこで社会を大停電が襲う。
そう、コロナだ。

今までの正解が正解で無くなり、暗闇の中、誰もがそれを探してもがいているように見えた。

私文大学生という身分は、ご存知の通り時間的制約が少ない。友達に会えない、どこにも行けない、バイトもできないという中で、自分に出来ることは、布団の中で1人「自分は何がしたいんだろう」と考えることだけだった。
朝も夜も、来る日も来る日も考えた。


夜が必ず明けるように、コロナも一旦の収束を見せる。暗闇の中に陽が差し込み始め、社会は以前のような状態にゆっくりと、でも確実に戻って行った。

コロナ前の「正解」はコロナ後でも意外と「正解」であることが分かった。
あれだけ流行ったリモートワークは翳りを見せ、「オンライン飲み」など死語と化した。
周りもそれに応じて就活をして、社会に旅立って行き、コロナ前と変わらない就活実績で、それなりのところに入っていったように思う。

それでも自分は、1度胸にした「自分は何がしたいのか」という問いを捨てられなかった。これに答えを出さず、方位磁針を持たないまま、社会という大海原に切って出る勇気は当時の自分になかったのだ。



「よし、アフリカ行くか。」
海外になど出たことがない自分は、そう思うと即日パスポートを作りに行き、成田▶︎フランクフルト▶︎ヨハネスブルグ行きの飛行機を予約した。
1週間でバックパックを買い、荷物をまとめ、数人の友達に挨拶をして、空港へ向かった。

「何がしたいのかを探す旅」に出たのだ。



未知の環境で、未知の体験をしたら、自分の感性が新しい反応をするのではないか。
「自分探しの旅」ではなく、今ここにある自分をより深く知るための旅に出た。外向的な旅ではなく、内省的な旅である。


その期間は、本当に色んなことがあった。アフリカからヨーロッパに抜け、東欧からアジアへ入っていった。色んな人に出会い、そして別れた。
色んなものを食べ、大概不味かったが、中にはとんでもなく美味しいものを見つけることも出来た。
絶景を見た。人が死ぬところも見た。ついでに友人も死にかけた。

とうに1年がすぎ、当初持ってきていた服は手許に1枚しか残っていない。
LINEやインスタよりWhat's appの方が連絡が来るし、写真フォルダはもう100日以上バックパックがとれていないそうだ。


そんな日々が続いて、ようやく気づいたのである。人生とは、それ自体がもともと「何がしたいのかを探す旅」であったのだ。

新しい人に出会い、日々の中で新しい発見をし、自分のことを知っていく。それは何も旅に出なければ出来ないことではなく、日々の自分の感度次第であったのだと。

気の知れた仲間と、大好きな日本で、慎ましくも安定した日常を送り、日々の小さな幸せを丁寧に探す暮らしをしたい。

そう思ったのはいいが、それは今の自分にとって、簡単なことではなかった。

大学はいつの間にか卒業しており、社会経験なんてものは一切無い。使えるスキルなんて何一つないし、英語もはっきりいって中途半端だ。

知らない外国人と、酒の話で盛り上がることくらいしか特技のない、自堕落で、無能な自分に、日本社会の中で居場所があるとはどうしても思えないのである。

そんなわけで、まずはインドでタダ働きから始めることにした。休みは週一、給料はないが、食費と住むところは出してくれ、働き続ければ日本への飛行機代も出してくれるらしい。

無能な自分のファーストキャリアとしては、これ以上ない高待遇である。



このnoteは、そんな自分が、日本での社会復帰をめざしてちょっぴりがんばる奮闘記的なsomethingだ。

檻の中にいる珍獣を、たまには覗きに来てやってほしい。





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