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素朴さとポップカルチャー:『あしたの少女』『親父の船』

日本のお笑いがあまり好きではない。主語が大きすぎるので正確に言えば、日本の大手テレビ局の番組を中心に展開されているお笑い業界がちっとも好きではない。2023年にもなって業界を牛耳るのはマッチョで特権的な男性達であり、彼らの多くが、あるいは彼らの所属する吉本興業が、保守政治家と癒着したり、旧態依然とした価値観で笑いを取ったりしている様に辟易する。先日放映されたキング・オブ・コントでも、男性審査員がスタジオの中心に、統一的な赤いシャツで脱個性化された女性観客が周縁にいるという、あまりにも不均衡な構図がXで指摘されていた。こんなにマズい状況に碌に言及しないまま、お笑いや漫才を社会学と結びつけて論じるのを読むと、正直腹も立つ。こんなことでストレスを溜めている私は、卒論を二ヶ月後に提出しなければならない状況にある。進展はあまり良くない。そのためしばしば現実逃避をしてしまう。昨日も新作映画を見に行った。
チョン・ジュリ監督『あしたの少女』は、韓国を舞台に「実習生」としてコールセンターで働き始めた高校生ソヒの悲劇を描く。競争社会が根強い韓国では、若者が高校生の時分から企業で働き社会に出る制度があるそうで、学校側も実習先を斡旋する仕組みになっている。悲劇と書いた通り、その実態は未来ある若者の体力や精神を搾取する構造になっており、ソヒが働くコールセンターも労働者が無理することを前提としているかのような過酷なノルマ制度が取られている。ソヒは見知らぬ失礼な男に刃向かうようなタフさを備えているからこそ、彼女が徐々に身も心も擦り減らし、仕事のために倫理的な一線すらもあっさりと超えてしまう展開はハードだ。しかし本作は、一人の若者が追い詰められる様を見せて観客に同情と恐怖を煽るだけの作品に留まらない。『サイコ』(1960)よろしく、主人公=被害者が退場した後半からは、別の主人公=追跡者が登場する。ペ・ドゥナ扮するユジン刑事は、ソヒと同じダンス教室に通っていた故に、彼女を搾取していた企業の責任を追求し始める。ハラスメント体質を温存するコールセンターの社員達、劣悪な職場と知りながら実績のために学生を斡旋した学校教員、実習制度を運用し続ける教育庁と、しらみ潰しに構造を巡り問題の根源に迫ろうとするユジンは、ソヒが哀れな犠牲者の一人に還元されてしまうのを必死に防いでいるのだ。またユジンは、監督のチョン・ジュリ自身でもある。『あしたの少女』は、2017年に実際に起こった実習生の自殺事件を元に制作されているが、ジュリ監督がこの題材を映画化にしようと思ったきっかけは、制作当時には既に実習生制度という社会問題が風化しかけていたからだそうだ。本作公開後、再びこの問題に社会的関心が集まり、2023年に勤労基準法の適応範囲を実習生にも拡大する「職業教育訓練促進法」改正案が国会本会議を通過している。
『あしたの少女』が韓国の世相を鋭く描いた作品たり得ているのは、社会問題を提起する力に溢れているだけでなく、ソヒを始めとした若者達の文化や習俗をいささかも揶揄を込めることなく描いている点である。ソヒが趣味とするダンスは、今や世界を席巻する韓国のポップカルチャーの象徴だが、それは彼女にとって辛いストレスを発散できる希望であり、遂には掴み得なかった理想なのだ。ポップカルチャーへの理解と、社会構造への洞察を高水準で両立できる韓国映画の地力を感じる作品だった。
映画監督の増村保造(1924-1986)はかつて、撮影所時代の大映が量産していた「母もの」映画を批判した。社会的圧力や権力の命令に刃向かうことも自分の幸せを表現することもできない戦後の日本人の理想が投影されたような、無知な母親が我が子の幸せのため自己を犠牲にするという映画シリーズを許せなかったのである。『あしたの少女』のソヒのドラマは、増村がここで指摘する無知で無垢な庶民の有様を強く想起させる。しかしユジンのドラマの骨太さがそれを凌駕するのだ。『あしたの少女』を見て感銘を受けると同時に、韓国と比べて日本の映画やお笑いなどポップカルチャー全体は、増村が軽蔑した無垢性/牧歌性から大して進歩していないのではないかと思ってしまった。
かく言う自分も、庶民の域からは出られない。課題に追われるという陳腐な理由で、社会情勢について深く学ぶことはない。嫌いと言いながらも、疲れた時はお笑い番組を思考停止しながら見続けている。しかもYouTubeの無断転載で。テレビと違って検索や一時停止ができるので、正直とても楽だ。つい先日も、松本人志のすべらない話を見ていた。途中までくだらない話に笑っていた。ところが、ある芸人の話に不覚にも感動してしまった。大悟(千鳥)による「親父の船」の話である。彼が瀬戸内海の小さな島で裕福ではない家庭で育った体験についてなのだが、その貧窮ぶりは現在の売れっ子な様子からは想像もできない。あくまでテレビ向けの、ポップな語り口ではあるものの、大悟は、島の中では、羽振りの良い家庭が幅を効かせ貧しい者を踏みつけるという露骨な階級構造があることを包み隠さずに話す。そしてこの話の重要人物である大悟の父親は、そうした構造を間違ったものとして子供に教えることもできない、まさしく「無知で無垢な庶民」だ。「親父の船」は、そんな彼がどうしようもなく笑えてくる話なのだ。
お笑い業界の中核を担う千鳥も松本人志も、今は立派な権力者であり、そんな彼らが構造に目を向けない事実は全く擁護のしようもない。けれども大悟の父が、冷徹な構造と残酷にも正面対峙を強いられる時、その絶望的なまでの庶民性は、大悟のやや甲高い声と抑揚と共に、増村の批判すらも突き抜けて、すべらない領域に到達するのである。


参考文献
・映画『あしたの少女』オフィシャルサイト

・『親父の船』



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