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2年半で100冊読んでみて
2年前の夏、いわゆる燃え尽き症候群になりました。猛烈に働いた結果が、心身ともに疲弊しまるでボロ雑巾のような自分でした。努力と反比例するように、目指していた目標に届かず、やり切ったのにも関わらず失敗することの苦さとやるせなさ、行き場のない感情を抱えて暮らしていました。どうしようもならなくなり、数年ぶりに私には珍しく母を訪ねました。急な来訪にも関わらず、色々と世話を焼いてくれたことを今でも感謝しています。またそれは、私にとって一つの転機でした。
好きなものは、やっぱり好きである
母と一緒に過ごす中で、好きな読書を再開させました。久しく読書をしていなかった中での活字との触れ合いは、心の器を程よい温度のお湯で満たすような心地よさがありました。
その時に読んだ本がこちら。
『同志少女よ、敵を撃て』逢坂 冬馬
https://bookmeter.com/books/18710663
なかなかヘビーな内容でしたが、自分の世界との程よい解離が、逆に心地良かったのです。
独ソ戦のさなかに描かれる少女たちの生き方、いや生き様は想像を越えるものがあった。「戦争は女の顔をしていない。」この言葉の意味を読了後にしっかりと受け止めることができた。 ―そしてエピローグで描かれる戦後のセラフィマの生き方。無の境地を越えたところに生があることを信じてやまない。 このお話を読む中で、ヴィクトール・フランクルの「夜と霧」を思い出した。もう一度読み直してみたいとも思う。
無の境地を越えたところに生があること
この言葉は当時の私にとって、まるで自分のことを指しているかのような錯覚を覚えた一言です。
その当時
私は、まさしく無であったから。
砂漠で、雨を待つ植物や動物のほうがまだ生(瑞々しさ)に近いのではと思うほど、無であることを感じていました。
空っぽでもなく無だったのです。
無力、無関心、無慈悲、無理、無のつく言葉はあるけれど、ただの「無」なのです。
しかし、セラフィマに自分を重ねたことで、癒えないと思っていた何かが癒えていくのを感じました。
そしてその当時の「今」の想いを表出(アウトプット)して残したいと思いました。
好き嫌いせずに読むこと
一つだけ決めたことがこれです。小説だけでなく、エッセイ、ノンフィクション、新書に実用書。幅広い分野の本を多岐にわたり、読むようにしてきました。小学生の時の自分に戻ったようでした。押し込めていた「好きなもの=読書」の世界の扉の取手を再び掴んだのです。自分の中に、人生のサポーターが日々増えていくような心強さも同時に感じていました。
読書する人だけがたどり着ける場所
齋藤孝さんの名著でもあるこの言葉。読書することで得られるメガネは、遠くも見えるし、近くも見える。そしてぶれて見えていた世界すらも、クリアにしてくれる。まるで遠近乱両用のようなものである。
『読書する人だけがたどり着ける場所 (SB新書)』齋藤 孝
100冊のインプットとアウトプット
この2年半、100冊のインプットだけでなく、レビューや感想を書くこと、つまりアウトプット続けました。読書のアウトプットの効用については、こちらの記事からどうぞ。
アウトプットの重要性を教えてくれたのは精神科医のこちらの先生です。
『学びを結果に変えるアウトプット大全 (サンクチュアリ出版)』樺沢紫苑
そして、記念すべき100冊目は
ノンフィクションでした。意図したわけではありませんが、100冊目を飾る良書でした。
『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』ブレイディ みかこ
ここ数年のうちに読んだノンフィクション本の中で、一番自分ごととして考えることのできた一冊。「子どもはすべてにぶち当たる。」私はこの言葉に、子どもはすべてを作り出すと続けたいと思う。子どもたちには、こうでなければいけないという鋳型があるわけではなく、非常に柔軟である。かつて子どもだった私ですら、その実体のない箱(アイデンティティ)を思い出す事ができる。でもそれを言語化することは、今では難しいものである。差別や区別によって、帰属意識が生まれるというなんともアイロニーな世界についても考えることができる一冊。
101冊目のスタートに立って
100冊という数字は、単なる記録に過ぎませんが明日から新年度ということで、101冊目の良いスタートを切っていきますね。
最後までお付き合いいただきありがとうございました。あなたの価値観の広がりの一助になれていたら嬉しいです。
サポートありがとうございます。感謝です。