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温泉地にて

 私は観光地にいる。チャーリーと、近所に住む六十歳になったばかりの道子さんと三人いっしょだ。
 観光ホテルの一階は土産品を売るコーナーと、入浴施設に二分されていた。私はチャーリーと土産物売り場に向かった。道子さんはフロント近くのソファに深く腰をかけ、スリッパの足をぶらぶらさせながら、私たちをにこやかな顔で見ていた。
 商品はあふれ返るほどあって、目の高さよりもずっと上のほうにまで飾られていて、どこから見たらいいのかわからないほどだ。チャーリーと、はぐれてしまったら、彼を探し出すのさえ難しいぐらいの商品の山である。だから極力、私たちは互いの存在を確認しながら見て回った。
 ガラス細工に似た小物のあるコーナーで、私とチャーリーは足を止めた。ガラスのように見えたが、手に取ってみればガラスではなくプラスチック製品で、さまざまな動物のミニチュアを形造ったそれら物体は、特別な加工が施されていた。
 たんぽぽ色の光と、薄いミントグリーンの光、すべてが虹の色を反射している。いずれも一つ百円だ。私は猫の物が一つ欲しいと思い、並んだ動物たちのなかに猫がいないかと探す。
 猫らしい物が目に入ったので手に取ってみたけれど、私が考えている猫とおよそかけ離れている。台に戻し、別の猫を探す。しかし、生き生きしているのは猫以外の動物ばかりで、猫らしきものには魂が宿っていないかのようで、つまらない表情と形をしていた。
 この売り場で無駄な時間が過ぎていくのを感じる。なんとかして魂の宿った、これこそが私の求めていた猫といえるような一品に出会いたいという思いが強まる。
 チャーリーも私の脇で品定めしているが、私と同様なかなかこれぞというものを見つけ出せずにいる。

 猫が見つかったかどうかはさておくこととして、私は道子さんと大浴場のほうへ移っていった。
 脱衣所を通り越して、二十人以上が漬かれそうな広い浴槽に入る。
 道子さんは、私が貸した茶色のセーターを肌の上に着ている。言い忘れたが、この風呂は服を着たままでいいというのがうたいで、だから誰もが着衣で入浴する。それを気にかける者はいない。というか、私と道子さんの他には誰もいないのだった。
 見ると道子さんの茶のセーターの背中は虫食い穴だらけである。私はそれを確認しないで貸してしまったのだ。しかし、穴が背中であるために、道子さんはまったく気づいていない。
 穴の数や、ほつれぐあいは普通ではない。体の肉がセーターの編み目を引っぱっているので、余計に穴が広がっている。
 そうとは知らずに道子さんは悠長な物腰で、入浴を楽しんでいる。
 神経質な性格の道子さんだから、背中のありさまを知ったら、さぞかしのパニックになるはずなのに、知らずにいる道子さんののんきな様子を背中の穴が嘲弄しているかのようで、そんな落差が私にクスクス笑いを噴き出させる。
 たまりかねて私は一言する。
「背中に穴が開いてる。たくさん……」笑いをこらえながら言った。
「あらっ、そう」
 道子さんは私から借りたセーターにどれほどの穴が開いていると想像しているのだろうか。この反応のしかたならば、たぶん米つきバッタがひと食らいした程度の小さな穴しか思い描いてはいないようである。しかし実際は米つきバッタどころか、特大のカミキリ虫百匹で食い荒らしたかのような編み目の破れぐあいなのである。私はどうしても、この状態を正しく教えねばならないと感じた。しかし、私のクスクス笑いは止まらなくて、教える言葉を笑いがふさぐのである。
 道子さんは私の尋常ならざる笑いに気づいたようで、首をこれぞという限りにひねって自分の背中を見下ろした。
「いやあねえ! ひどいじゃないのぉーっ!」
 道子さんの顔が一転して曇る。ここで私のクスクス笑いが止まった。道子さんの機嫌をどうしたら戻せるかと、私の快楽はたちまち焦りに席けんされていった。


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