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三浦春馬さんを探して

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縁あってここにきてくださった方へ

この文章はかなしいことやつらいことを1万字以上も書いています。できるだけ淡々と書くように心がけましたが、それでもかなしい・つらいという渦巻く感情を情緒的に伝えてしまうと思います。これを書くことで祈りのロザリオの珠のひとつになれたらいいけれど。

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2020年7月18日土曜日
三浦春馬さんが亡くなった日

2020年7月24日金曜日
三浦春馬さん新曲「Night Diver」MV
午後9時40分頃、「ミュージック・ステーション」内で放送
午後10時、YouTubeにてフルバージョン公開

瞼閉じて映る世界
そこに君がいるならば
もういっそこのままでいいや
いつまでも忘れられなくて

明日になれば治まるような
胸に突き刺さる棘の行方
知らんふりして見ないようにして
気付いたら戻れないような気がした
昨日も同じ事考えて結局こんな夜過ごして
それでも嫌な感じじゃなくて

きっと誰も知らない言葉が今僕の中で
渦を巻いてずっとLoop Loop Loop Loopして
吐き出そうと声を出してみてもうまくいかない
My heart beats faster
Night Diver
Night Diver
あの頃に戻れるなら僕に何が出来るだろう
多分何も変わらなくて
きっと今の僕には変えられない

明日になれば治まるような
胸に突き刺さる棘の行方
知らんふりして見ないようにして
気付いたら戻れないような気がした
昨日も同じ事考えて結局こんな夜過ごして
それでも嫌な感じじゃなくて

ずっとこのままで良いわけなんてあるはずもない
弱音吐いた夜をLoop Loop Loop Loopして
情けないこの心に生きる理由を与えて
My heart beats faster
Night Diver
Night Diver

記憶の中であの日を思い出す
くだらないプライドばっか掲げて
知りもしないくせに適当に過ごしてばっか
呆れられて情けなくて嘘をついてた
数え切れないほどの言い訳を積み重ね
大事なもの失って
流れた涙は夜に落ちた

きっと誰も知らない言葉が今僕の中で
渦を巻いてずっとLoop Loop Loop Loopして
吐き出そうと声を出してみてもうまくいかない
My heart beats faster
Night Diver
Night Diver

"瞼閉じて映る世界
そこに君がいるならば
もういっそこのままでいいや
いつまでも忘れられなくて"

こんなにも美しいMVを
この世界に残されて
いつまでも忘れられない
彼が選ばなかった世界に
今居るのだということを
残されたひとは
いつまでも考えてしまうよ

作詞は辻村有記さん。
だけど三浦春馬さんが心の中で濾過して自分の言葉として歌っていると感じられるから、胸に突き刺さるのです。

"きっと誰も知らない言葉が今僕の中で
渦を巻いてずっと Loop Loop Loop Loop して
吐き出そうと声を出してみてもうまくいかない
My heart beats faster 
Night Diver"

輪を描くように雨と水の中で舞う姿が無限にループする
三浦春馬さんの心の奥を探して思考も永遠にループする



悲嘆のプロセスという概念があります。
視野狭窄と遮断と固着と激情と達観と落胆と怒りと赦しと否定と肯定と…
様々な感情を一方向かつ段階的に展開するのではなく、
行ったり来たりとループしながら相克していくものだそうです。
生きていくために悲しみの繊細な輪郭を言葉にすることが必要で、
生きていくためにこそ悲嘆をループしようと考えました。
最初のうちこそ衝動的に書くことをよしとしていました。

しかし、わたしはだんだんと書くことに申し訳なさを感じるようになりました。周りの方々がさりげなく心配してくれていることが伝わって優しさが心にしみます。ありがとうございます、と心の中で頭をさげました。それをうまく伝えられないのがもどかしいです。

彼の死は多くのひとにとって衝撃的なできごとでした。
そのつらさを抱えてSNSを休んだり、あえて言葉にしないまでも思い出すたび胸が苦しくなったり、精神的に不安定になっている方は多い気がします。少なくともわたしがSNSで接している方々の様子をみているとそう感じます。パンデミックという、誰も経験したことがない世界でほぼ自力で生きぬくことを余儀なくされているので、精神的にも身体的にも生活としても人間としても社会としても張り詰めた苦しさも重くのしかかっています。それでも日々の生活をがんばっている様子や、世の中で起きていることや知っておくべきことを知らせてくれたり、かわいい猫の写真や美しい風景の写真を送ってくれたり、好きなひとたちや好きな作品の最新の情報を伝えてくれています。

わたしのフォローしている方々はニュースサイトの記事を決してタイムラインに流さないように配慮してくださっていたことを知りました。ありがとうございました。
わたしも絶対に読まないようにしていたのですが、たまたま検索結果に出た新聞記事を読んでしまいました。情報を受けとる側に精神的な負担を与えないために方法や場所などの具体的なことは書いてはいけないと報道ガイドラインに書いてあるはずなのですが、初期報道にはそれを遵守していないものがあって、偶然にも読んだのです。
想像でも推測でもない簡素な事実報告の記事ですが、祖母と叔父と友人など親しいひとに類似した体験を持つわたしにとっては、見た瞬間に息が止まり、深く心をえぐられるものでした。
それ以来、狂おしさが自分の中で加速しました。自分ひとりで繰り返しくりかえしその場面を想像して考えつづけて問いかけつづけるのでした。

考えすぎて思いつめて心がふさがり、泣くこともできない涙の代わりとして吐き出した言葉は重量を増し、その鋒は鋭く尖ってしまいます。丁寧に受け取ってくれたひとの柔らかい心に傷をつけてしまったかもしれない、自分の悲しみがまた誰かを悲しませているかもしれない。そのことにはっと気付いてからは、周りにもどこでも何も言えず何も書けなくなりました。正気にもどるといたたまれなくなりました。アカウントを消すと、春馬さんを悼む言葉を訳して多くのひとが読んでくれたツイートもまたこの世から消えてしまうので、そうすることもできません。いままで培ってきた縁やあらたに結んだ縁を考えたりもしました。さらに言えば、こんなアカウントですら、自らを消えても構わない存在だと考えてしまうとそれはまたそれで同じ道を歩むことになる気がしました。

これは自分の言葉で自分を引き留めるために書きました。
本当は、真逆の方向へと思考が引き込まれていたのです。

これは、病んでいる、という状態なのかもしれません。
でも病んでいるからといって、この心は、
消しゴムやdeleteキーで消せるものではないのです。
できることなら、backspaceで7月18日までの記憶を消し去りたい。

喩えるならば、シャンパンタワーのように積み上げたカクテルグラスの上に、シャンパンではなく、滝のような大量の水が流れ落ちてくるのです。カクテルグラスは水をうけとめているけれど中には耐えきれず倒れて下に落ちて割れて大きな音をたてるものもあります。それでも水は流れ落ちてくるし、カクテルグラスもまだ大量にあります。なんのためにこんなことをしているのかよくわからないのですが、とにかく水は流れ続け、グラスは割れ続けています。また電車に乗っているときに、胸の中に大きな水瓶を抱えて歩いている感じがしました。周りのひとには見えないのです。水瓶のふたはなくて、歩くたびに水があふれて、心の中も頭の中も水浸しです。
それでも生きていかなくてはなりません。
水浸しの世界で誰にも言えない言葉が胸の中で渦を巻いてLoopするのです。三浦春馬さんの「Night Diver」の歌詞が自分とシンクロしすぎて苦しくなります。このMVは自分のことのように感じられて、切り離せなくなっているのです。

ずっと「Night Diver」のMVを見ています。
日に何度もYouTubeに行き、動画を再生しています。
コメント欄があることに気付いてから、コメントも見ています。

一度コメント欄をごらんになっていただきたいです。
「34,965 件のコメント」等と書いてあるところの横に「並べ替え」または小さな記号があります。そこをクリックして、「新しい順」にすると、次から次へとコメントが投稿されるのがお分かりになると思います。
朝な夕な、春馬さんを想うコメントがとぎれなく投稿される様子を見ています。
コメントは、春馬さんに語りかけたり、自分の思いを綴ったりと様々です。どの言葉にも春馬さんへの想いがあふれていて、美しい珠のようです。
次々とコメントが投稿されるコメント欄は、言葉の珠が連綿と繋がる祈りのロザリオのように見えてきます。
このコメント欄はひとつの《祈りの空間》だと感じました。
ここならいてもいいかもしれないという気がしました。吐き出した言葉の重く鋭い鋒でだれかの心を傷つけることを心配しなくてもいいこととわかったからです。なぜならみんなとっくに深く傷ついていてその傷をかかえきれずまた捨てることも切り替えることもできなくてここに来ているからです。わたしは朝な夕なにここにきて、夜眠ることができなくなってからは朝が来るまでもうひとつの居場所として過ごしています。

このMVはなぜそこまで深く感じさせるのでしょう。
三浦春馬さんはもうすでに亡くなっています。
でも三浦春馬さんはここで生きているのかもしれません。
と思うほどまでにわたしは病んでいるのかもしれません。


ある日、Twitterで、次のようなツイートをたまたま目にしました。

>
「素敵な方だったのに」的な書き込みをしている人は、
その素敵な像がメディアに作られた虚像で、
現実の青年の本当の等身大は全く別のもの、
作られた演出像を見ているだけと気づいていない。
でその視線が人を殺す事にも気づかない。

>
画面に映るすべては「嘘」ですよ。演出。商売。
それを一番よくわかっているのは本人です。

これを読んでからあたまがおかしいのです。
念を押しておきますが、決してこの方を否定するつもりはありません。この方はこれまでの経験に基づいて書いている、そのことはきちんと尊重したい。というよりも、そうかもしれない、と一瞬思わせる説得力がこの言葉にはあるのです。事実の側面を照らし出している気がしました。だからこそわたしはこの言葉に打ちのめされたのです。狂おしさが増しました。

そうなのかもしれない
嘘なのかもしれない
虚像なのかもしれない
演出なのかもしれない
商売なのかもしれない
嘘と真実の境界で彼がなにを考えていたのかは全くわかりません
この映像をずっとループして考えが堂々巡りをしてしまいます

何が嘘でなにが真実なのか。
それをどうやって証明できるのでしょうか。
わたしたちがふだん話す言葉にも嘘と真実は入り混じります。いまこの瞬間にもこれを書いているわたしは全く嘘をついていないとは断言できないのです。読まれることを意識してなにかをごまかしているかもしれないのです。少なくとも穏やかな言葉を選び取り、できるだけ丁寧に書こうとしている段階で、嘘がまざっていると言えるかもしれないのです。もっと狂気に近い激しく痛ましい言葉を心の中で叫んでいることもあるからです。
普段の生活でも、生きていることと嘘は共存しています。
良識ある大人として振る舞う、ということがそもそも演技です。
生きていることは「演技」だといえるかもしれないのです。

しかもわたしは、最も嘘で塗り固められたような舞台にこそ真実を見ている気がするのです。あり得ない設定、ありえない世界観で演じられるお芝居にかえって人間のリアルをありありと感じることがあるのです。だから好きなのです。そう感じるのはなぜなのでしょうか。それを説明したいと思うのにうまくできなくてもどかしいのです。それができないと三浦春馬さんの作品は輝きを失う気がしました。やだやだそんなことはいやだと考えます。


くりかえし「Nignt Diver」のMVを見ました。
何度も苦しみながら考えました。
わたしにはここにいる彼の姿が「虚像」「嘘」だとは思えないのです。

確かに言えること

あの右手を見て
あの左手を見て
指の先まで細やかに心を遣ってる
あのピンとのばした足のつま先を見て
水の中でループするところも見て
体幹がしっかりしていないとできない
ダンサーのみなさんたちとの呼吸もぴったり合ってる
何度も踊って何度もやり直してチームで励まし合って
こんなにも躍動感のある美しい映像を作り上げるために
より高みを目指していたはずなのです

この曲は、毎日毎日ずっと聴いても決して飽きないのです。
なぜ飽きないのだろうと不思議に思っていました。
ふと、この曲のリズムが、三浦春馬さんの「心臓の鼓動」のように感じるからかもしれないと思ったのです。
心臓の鼓動はひとがいちばん安心するリズムだといいます。
最初の方でため息をつく場面から呼吸を感じさせ、それが高まっていく

"きっと誰も知らない言葉が今僕の中で
渦を巻いてずっとLoop Loop Loop Loopして
吐き出そうと声を出してみてもうまくいかない
My heart beats faster
Night Diver
Night Diver"
この部分ではとりわけ力強いリズムを感じます。「My heart beats faster」で春馬さんが胸に手を当てる振付は、春馬さんの手の動きが優美で、立ち姿の軸の美しさと相まってやわらかくしなやかな身体の内部で確かに脈打っている心臓の存在をありありと感じさせてくれます。背景にCGでふわっときれいなリボン状の模様が現れるのも、心臓の鼓動を感じさせてくれて好きです。
春馬さんの心臓の鼓動、彼がいままさに生きているということを、直接触れずとも、想像力で感じられるのです。
そのように演出で作られている、といえばそうなります。
けれど、春馬さんが「My heart beats faster」という歌詞を歌うとき、言葉と身体とまなざしのどれもが、自分が生きていることを伝えようとしてくれているように感じるのです。

この映像を制作した時期の、このとき本番に入る前に、三浦春馬さんが何を考えていたかなんてわたしには全く分かりません。
けれどこの現場の本番では、三浦春馬さんは最高の表現・最高の映像を作り上げることに全身全霊を尽くしていたと感じるのです。
中途半端ないいかげんな仕事をするようなひとじゃないと思うのです。
この身体が、このまなざしが嘘だなんてわたしには決して思えない。
そうでなければこの映像がこんなにも心を打つはずがないのです。
そうでなければ彼の脈打つ心臓を感じられるはずがないのです。

この映像には三浦春馬さんの命が輝いている。
必死にひたむきに真摯に生きた、三浦春馬さんのありのままの姿がここに映し出されていると思うのです。

これも全て「嘘」で「虚像」だというのなら何が真実といえるのでしょう。
美しくありたいと願い、
優しくありたいと願い、
よりよい自分でありたいと願い、
想いを伝える技術を高めたいと願い、
その願いを実現するために振る舞うことも全て虚像で嘘だということになります。ひとが生きていくために用いる表現の全てが「嘘」で「虚像」だということになるのです。その考えの行き着く果ては虚無が広がっています。わたしはそんな虚無には行きたくない。

画面に映るものは全て「嘘」なんて、それだけは違うとわたしは思います。
ここに三浦春馬は確かに生きている。
三浦春馬をありありと感じられる。
だからわたしはこの映像を今日も観るのです。
ここから離れたくないのです。
世界が時間が刻々と変わりゆこうとしても心はここにいる。

三浦春馬さん
あなたはここにいる
ここにはあなたの生きたいのちが永遠に輝いている



そう思いたいのです。


そう信じたいだけなのかもしれません。



けれど、わたしの頭はおかしいのでまた話がループします。
この話には結論などはありません。
なぜかというと、永遠に答えが出ないからです。

彼は常々自分のこと「商品」だと発言してきました。
仕事人としてのわきまえのよさ。
そのことがまたわたしをくるしめるのです。

三浦春馬さんのお芝居の特徴は「欲がない」ことだと思います。
爪痕を残すとか生きた証を作るとか次の足場にするとか、
そんなことはたぶん考えていなかったのかもしれません。
迷惑をかけない、求められたことに応える、というまじめさもあるし、
その役を生きる、真摯に生きる、正しく生きる、
ただそのことだけに全身全霊をかけていた気がします。

タイミング上、わたしは三浦春馬さんの舞台を観に行く機会を作れませんでした。『キンキーブーツ』や『罪と罰』の時期は仕事が忙しい時期なので観劇の計画は入れなかったのです。三浦春馬さんはこれからどんどん成長していつでも観られると思っていたからです。
さらにわたしは三浦春馬さん主演で『Dear Evan Hansen』というミュージカルをぜひ観たいと思っていました。三浦春馬さん自身もこの作品の主演をぜひやりたいとメディアで発言していましたので、大好きな『Dear Evan Hansen』の日本公演が三浦春馬主演で実現するのを心待ちにして、彼が歌う「Waving through a Window」を聴くために絶対にチケットを取ろうと思っていました。こうして数え切れない言い訳を重ねながら苦しむのです。

そんなわたしにとって、三浦春馬さんの出演作で好きな役は大河ドラマ『おんな城主直虎』の井伊直親であり、最も好きな作品はTBSのドラマ『わたしを離さないで』です。

『わたしを離さないで』三浦春馬さんインタビュー

この作品で、三浦春馬さん演じる友彦が無になっていると感じる場面が多々ありました。目に何も映していないときがあるのです。
なんにもない、からっぽの目を見せるのです。
絶望でも怒りでもなくて、からっぽ。
ある意味、澄み切った無の境地といえるかもしれなくて、
ある意味、欲のない天使のようにも見えて、
ある意味、人間みを失った存在にも見えました。

綾瀬はるかさんと水川あさみさんの2人の女性が彼に注ぐ過剰な愛情と欲望をただ果てしなく際限なく受けとめる透明な器のような透明な存在でした。2人の渦巻く愛情もその裏返しの憎しみに似た激しい感情も、三浦春馬さんという魂と身体を通過させると不思議と消えてなくなるのです。
最後にだけ彼が感情を爆発させる場面がありましたが、怒りによって世界を破壊するというよりは、自分自身に向けているような痛ましさがありました。透明な微笑みとともにフェードアウトしていくのです。背も高くて姿勢もよくてまっすぐに軸の通った身体の持ち主なのに、抱きしめても抱きしめてもすりぬけていく。そんなはかなさが美しい、稀有な存在感だったのです。

わたしは三浦春馬さんのあの存在感を大切に想っていました。端正な顔立ちの美しさはいうまでもありません。それ以上に、その目線、手の使い方、表情、台詞の言い方は彼にしかできないものでした。爽やかで美しく、時に怯え、時に誠実で人恋しく、時に空々しく打算的で、未熟なような悟ったような、一途な想いを語りつつもなにもかも流される色好みでもあり、こどものようで大人のような、人物の魂の多彩な色彩と輝きと陰影の濃度の表現者だと思っていました。
何より彼の瞳に映し出される心の揺らめきや波紋の美しさに魅了されていたのです。全てをうけいれて映しこむ瞳の美しさに救われてもいたのです。
ここまでも、ひとは透明な存在になれるのだと。
愛も憎しみもすべて受けとめられる深い魂になりきれるのだと。
それができる三浦春馬という俳優のこれからを待ち望んでいました。

好き、という言葉を使うことに強い抵抗を感じます。
そんなことを言える資格がない気がして苦しいです。

昨日、観たいと思っていた『罪と罰』をWOWOWでようやく観ることができました。

この三浦春馬さん自身と思われるツイートにも書いてあるし、WOWOWの「罪と罰」のアフタートークで大島優子さんと語り合っていたように、涙も汗も洟もすべてさらけだした三浦春馬さんの姿は壮絶で、その命が輝くさまはとても美しかったです。「洟とかこんなものはテレビでは出せないですよ」と笑いあう姿を見て、テレビでの表現の制約を不自由と感じていたのかと思って、心が痛くなります。

三浦春馬さん演じるラスコリニコフの葛藤と苦しみの道行きを描く凄絶な場面がつづいたのち、勝村政信さん演じる捜査官ポルフィーリがこう語りかけます。ここだけ書き起こさせてください。
「人生に背中を向けちゃいけない。あなたはまだ23歳です。あなたにはいろんなことが待っているんです。人生です。求めよ、さらば与えられん。神はあなたに期待しているんです。一生鎖につながれたままじゃないんです。人生にゆだねなさい。向こう岸にたどり着き、2本の足で立って、どんな岸辺かはわからない…。わたしは終わってしまった人間です。あなたの人生はこれからです。煙のように消えることになるでしょう。それでもまだ人生は残ります。人々があなたを見なくなるかもしれない、けれどそれがなんでしょう。大したことじゃない。問題は、あなた自身です。太陽になりなさい。そうすれば、みんながあなたを見ることになる。」
この台詞を聞きながら、三浦春馬さんの表情が、瞳の色が刻々と変わっていきます。それは絶望なのか希望なのかひとことでは言い表せない表情です。

何者でもないと苦しみ、赦されることを求めていたラスコリニコフの苦しみに、三浦春馬さんのリアルをどうしても重ね合わせてしまいました。それほどの真に迫ったお芝居でした。涙も汗も洟もすべて三浦春馬さんのリアルで、それをさらけ出せる舞台を春馬さんあなたは愛していた。それは「嘘」ではなかった。ラスコリニコフが消え入りそうなのも見ていてつらかった。にもかかわらず、それすらも「嘘」で「虚像」だという見方も実際には存在するので、物語と現実と錯綜して心が痛くてたまりません。

激しい苦しみの末、ラスコリニコフは、ソーニャが差し出したキリストの身体を象徴するパンを半分に分けて口にします。ラスコリニコフの魂が救われた瞬間だとわたしは感じました。ラスコーリニコフの魂は救われたけれど、春馬さんはどうだったんだろうとどうしても考えてしまいます。

「なにもかも、ふたつに引き裂かれていく」
命を絶とうとしたラスコリニコフの台詞が、心に突き刺さります。

死は突然背後から忍び寄ったのかもしれません。
長い時間仲良くしていたのかもしれません。
明確な根拠のない情報にはできるだけ触れないようにしていることもあり、なにもわかりません。苦しいです。

消え入りたいという気持ちは、
生きていたいという気持ちと同時に存在する気がします。

生きていかなくてはならないので、
わたしは三浦春馬さんを忘れようと思いました。
そうすることでしか、前に進めないと思ったのです。
きっとわたしはもうすぐ、あなたを忘れるだろう
きっとわたしはふたたび、あなたに出会うだろう
寄せて返す波のようにあなたを忘れあなたに出会う
そう思ったのでした。

先月の下旬に、幸運にもある舞台を観る機会を得て、とても心のこもる素敵な作品のすばらしい舞台で、舞台で光り輝くひとたちの懸命な姿に胸打たれ、心からの賛辞と感謝を拍手の形で贈っていました。
すると突然舞台で輝く姿が三浦春馬さんに入れ替わり、舞台という輝ける世界の真ん中に彼も両足でしっかりと立っていたのだと鮮烈に感じたのです。その幻影というべきか、幻と呼ぶにはあまりに生々しい姿が、心の中の目に映って、懸命に拍手しながらも涙が止まらなくなりました。嗚咽までして、彼が亡くなってから初めて両の目から涙が流れた気がします。
なぜ、なぜ、なぜ、なぜあなたは死んだのか。
こんなにも輝ける場所があるのに、そこで歌い踊り、そこで輝き、そこで生きることは、あなたに生きることの実感を与え、あなたに幸福をもたらしたはずなのに、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ、なぜ。
ねえねえなんで死んだのという問いかけがLoopして止まらないのです。

忘れようとしたのに、かえってありありと存在を感じることになりました。

なぜという謎がいつまでも胸の中でループします。
いつか行く道だからいつかわかるのでしょう。
そのとき聴かせてもらえたらいいなと思います。

今はわからないから、またこのMVに戻ります。
ここにいると狂おしさが鎮まるのは、
三浦春馬さんが生きていると感じられるからです。

このMVは三浦春馬をありありと感じられる。
だからわたしはこの映像を今日も観るのです。
ここから離れたくないのです。
世界が時間が刻々と変わりゆこうとしても心はここにいます。
というより画鋲で心がここに留められているので動けないのです。
でもそれも嫌な感じじゃないのです。

こんな形でも少しずつ表現して生きていこうと思います。
ほかにも書きためていることをすこしずつ出したりして
まだいろいろできることがまだあるかもしれないですから。
三浦春馬さんという存在をこの世に留めておきたいと願うから。

世界はめまぐるしくうつりかわり毎日大変なことばかりなのに、
ここまで読んでくださってありがとうございました。
ひとが生きることの悲しみと痛みとそれゆえの美しさ。
ひとはなぜ生きてなぜ死ぬのかという誰も解けない謎。
どんな状況下でも変わることなく存在する永遠の問い。
流すことのできない涙の中で泳いでいるような喪失の痛み。
大切に想っていたのに、大切な存在だったのにという深い後悔。

なんどくりかえしても慣れることができない
感情の回路を切っても慣れることができない
瞼を閉じて見えるのも慣れることができない
3週間という経過にも慣れることができない
慣れていくという事に慣れていきたくはない

これもまた三浦春馬というひとが残した形見なのでしょう。


さいごに三浦春馬さんの言葉を



ここまで読んで下さってありがとうございました。


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祈りのロザリオの言葉の珠となっていますように

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