台湾で泣いた話。なぜ自分と向き合うと歴史が関わって来るのか。

仮説

歴史認識は自分認識。

かも。

いや、絶対ちゃうやろ!!と思ったらここで読むの辞めて下さいね!!!あなたの時間は大変貴重です!!時間を無駄にしなくていいように結論を先に書いてみました。


この先は自論、暴論が続いておりますので読み進める場合は自己責任でお願いしますね!笑

台湾

2017年11 月『日台友好ツアー』というツアーに参加した。台湾に行って日本の事を知ろう!という趣旨のツアーだったと記憶している。

なぜ台湾かというと、台湾は日本が統治していた時代がある。1895年〜1945年の間の事である。そして日本統治時代を生きた人が今もご存命だ。当時の日本の教育、当時の日本の統治の仕方、当時の日本人の在り方に触れた方々がいる。

戦前の日本の事を詳しく知りたくなっていた時期だった。

台湾のおじいさんの言葉に泣いた

台湾のお爺さん達と話をさせてもらう機会があった。日本の統治時代を生きていた方だ。美しい日本語だった。そしてこんな言葉をもらった。

私は日本人だった事に誇りを持っています』
『日本人の方々は皆素晴らしかったです』
『日本は素晴らしいです』

涙が出た。

なぜだかはわからなかったが何かが震えた。
嬉しかった。そんな事を言う大人に会った事がなかった。シンプルにカッコ良かった。自分の過去を全て肯定してもらえたような氣がした。胸の支えが取れ、何かが癒された。こんな自分でも誇りを持っていいんだ。そう思えた。

歴史への認識が自分にも影響を与えるのかもしれない。

という事を体感した氣がした初めての経験だった。

自分の祖父の話

自分の祖父は学校の先生をしていた。大東亞戦争の時は満洲にいた。もう少し帰って来るのが遅かったらどうなっていたかわからない。というのを聴いた事がある。

僕が学校で教わった歴史で認識していた戦時中の教育はざっとこんなものだ。

『戦前の教育は良くなかった!!』
『とんでもない洗脳教育だった!』
『日本はアジアを侵略して悪い事をした!』

自分の祖父は学校でそれを教えていた人だ。

その認識でいたら
→祖父は悪い事をしていた。
→自分には悪い事をした人の血が流れている。


となる。無意識にそうなっていたように思う。今思うとそれは自分に誇りも自信も持てない原因の一つになっていたように思う。

台湾のお爺さんから言われた『日本人は皆素晴らしかった』という言葉は今まで誰も肯定してくれなかった戦時中の日本人全員と自分の祖父の事も肯定してくれる言葉だった。だから
→祖父を誇りに思えた。
→祖父に誇りを持てたら自分にも誇りが持てた。
→心から嬉しかった。
→泣いた。

ように感じる。理由はもちろん後付けだが"泣いた"という事実が自分にとって全てだった。

台湾元総統の話

そのツアーでは台湾元総統の李登輝(りとうき)さんのお話を伺う時間もあった。

李登輝(りとうき)元総統は大政治家であり
●台湾民主化の父
●革命家
と呼ぶ人もいる。

当時の自分は日本の事も台湾の事も李登輝元総統の事も今よりもっと知らなかった。今思うととても貴重な時間だった。

国の事、世界の事、アジアの事、志、視座の高さ、全てがカッコ良かった!お年は召されていたが圧倒的なリーダーだった。

日本人としての在り方、日本人としての誇り、自分よりも圧倒的に"日本人"だった。自分の会ったことのない日本人だった。自分は日本の何を知っているんだ?!李登輝さんの"絶賛する日本"は自分の"教わってきた日本"とはかけ離れているように感じた。李登輝さんがカッコ良すぎてもっと日本の事について知りたくなった。

そんな人の話を聴けた事、同じ空間にいた事、在り方に触れられた事は自分の宝物である。

素晴らしい体験をさせてもらった。

李登輝先生や台湾のおじいさんに触れて自分よりも日本人だな!と感じた!自分よりも下の世代に自信持って良いぞ!誇りを持って良いぞ!と言える事がカッコイイと思った。台湾に行ったおかげでそんなカッコイイ大人、カッコイイ日本人になりたいと思った!

そのために日本の歴史を知りたい。という思いが沸いた。

『日本人みたいだね!』は褒め言葉

台湾は親日国として知られている。台湾にダムを作った日本人の八田與一(はったよいち)さんは功績が称えられ、教科書に載っているという。

日本の素晴らしい先人達のおかげで台湾での日本の印象はとても良い。そのため『日本人みたいだね』は褒め言葉として使われる。『日本精神(リップンチェンシン)』という言葉もあるぐらいだ。もちろんいい意味で使われる。

現在の日本において『日本人は〜』からはじまる会話はいい意味で使う事はほぼないように思う。日本を下げて外国を褒める場合に使う言葉の枕詞になっている。それに対して良いとか悪いと言うつもりはない。傾向としてそのように感じる。

ただ、他の国に必要以上に憧れ過ぎではないか。自分の国の良さ、良いところを見ても良いのではないか、国に誇りを持ってはいけない風潮や教育がはびこりすぎていないか。偏りすぎていないか。いつからそのような風潮になっているのか。そんな疑問が湧いてきた。

体験から思う事

自分の体験から、
●自分の国に誇りを持てない
●自分の国を恥ずかしいと思う事
●自分の国が好きではない、
●自分の国に自信が持てない。
というのはそのまま自分にも繋がってくるのではないか。

それはそのまま
●自分に自信が持てない
●自分が恥ずかしい
●自分が好きではない
●自分に誇りを持てない

に繋がり、言葉を変えると

●自尊心
●自己肯定感
●自己受容
にも繋がっているのではないか。と思う。

それが現れている結果として日本の15〜38 歳の【死因の1位は自殺】という事実に繋がっているのではないか。もちろんそうとは言い切れない。ただ、個人的にはまったく関係がない事でもないように思えてならない。

外から日本を見たからこそ感じた感覚である。日本にいては氣がつかなかっただろう。

最後に

自分と向き合っていたら過去の事に行き着く。家族との関わりの中で形作られた自分、幼い頃の感情、それらをインナーチャイルドと呼んだりトラウマと呼んだりすると思うのだが、その先には歴史の認識があるのではないか。もちろん自論であり暴論である。納得してもらおうだなんて思っていない。

自分のインナーチャイルド、トラウマと向き合う事が自分の人生に影響を与えるのと同じように、タブーにして触れないのではなく歴史と向き合う事は日本という国や日本人にとって重要な事ではないか。とも思えた。


いろいろ言っているが本当はただ歴史を知りたいだけだ。そこにたまたま興味があっただけである。せっかく知るなら偏った歴史ではなくいろんな方面や立場からの包括的な歴史をこれからも知っていけたらおもしろい。

台湾での体験は『歴史の認識が自分の認識に関わる』という事を感じた。個人的にだ。

歴史を川の流れに例えるなら、今ここに流れている水がこのようになっているのは上流の流れを理解しない事にはいつまでたってもここに流れている水の本質はわからないままだ。

自分を知るために歴史を知りたい。テストのための歴史ではなく今の自分に至るまでの事を知るための歴史。

全ては自分のため。

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