自分ごと化・言語化で病まないためにできること
ビジネス界隈?ツイッター界隈?で流行ってる自分ごと化と言語化って誰もがやれることじゃない。
正確には、「切り替えまたはずっと考え続けることができる人」以外がやるとメンタルヘルスにめちゃくちゃ悪い。
でも仕事で成果を出したり何かを改善するためのツールとして自分ごと化・言語化って便利だから上手く使いこなしたい。
そのためにやれることってなんだろうか、っていうこんがらがった自分の思考を整理をしていこうと思う。
①自分ごと化とメンタルヘルス
自分ごと化、すなわち様々な物事は自分が関係あるって思うこと。
自分がステークホルダーだって思うだけで責任感とかやらなきゃなって気持ちが起こる。
メールでccに名を連ねてる時よりも、自分が宛先になってる時の方がちゃんとメールを読み込んでる気がする。
海外で起きてる事件とか政治とか経済のニュースとか、遠くで起きてる他人ごとと思うか人類として関わるべき自分ごとだと思うかで捉え方が変わる。
だからビジネス書とかすごい仕事してるツイッタラーとかその信者とかは自分ごと化を重要視してる。
でもメンタルヘルスを真っ先に病む人ってこの自分ごと化を過剰にやっちゃう人だと思う。
POP LIFE The Podcast #076 でメンタルヘルスやる人って社会を内部化する人(意訳)って言ってるの聞いて、確かになーと思った。
例えば、大前粟生『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』の麦戸ちゃんが辛くなったのは、他人に起きた悲しいことを自分ごと化したのが原因だった。
わたしがジェンダー論苦手なのもホモソーシャルとルッキズムを憎むのも、他人に起きたことを自分の過去と重ねてくるしんでるから。
自分ごと化って自意識過剰と紙一重だ。
世界の全てに自分が関係するって思ってたら、どんな人間にも限界はあるのだから、ギリギリ手が届かなかった事象に苦しむことになる。
ミッドナイト・ゴスペル6話でも問いかけられたとおり、自分の悟りじゃ他人を救えない。
だから自分ごと化って、矛盾を承知で線引きするか、苦しみながら世界を全て自分ごと化するか、のどちらかになってくると思う。
自分ごと化こなしつつもメンタルヘルスと直面してない人、無意識のうちに前者をできてる人んだろうな。
②瞑想法と言語化
マインドフルネスと自粛生活をきっかけに瞑想が流行ってる。
瞑想によって今・ここを過去と未来から切り離してあげるだけで色々スッキリする。
瞑想にもいくつか種類があって、その中でもヴィパッサナー瞑想が言語化に近いかと思う。
ヴィパッサナー瞑想とは、自分の体に起きる微細な感覚を感じ続け、観察し続けることだ。
自分に何が起きてるかを知覚するのって、結局どこかで言語化してることだと思う。(瞑想のプロの方、解釈が違ってたらごめんなさい。)
非言語のものを言語化してくのって、思考の解像度上げてくうえで役に立つ。
ソクラテスの問答法、現代で言うならばコーチングって、他者を介して言語化して気づきを得る行為だ。
だから瞑想しかりビジネスしかり、言語化によって得られる恩恵って大きい。
ただ、「深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ」というニーチェの言葉にあるとおり、言語化によって非言語化された深淵をのぞくのってわりとリスキーだと思ってる。
深淵に覗かれたことのある人間って、鬱になったことある人間と一緒で、正気に戻れなくなる。
だから正気じゃないことを隠さず生きるか正気のふりをして生きるかの二択が迫られる。
このあたり、前項と一緒で自覚しとかないとメンタルヘルスによくないと思ってる。
入り込みに注意するしかないのか
前項2つって結局、薬が効くか毒になるかの問題で、毒にならないように用量用法を守る=入り込みすぎないしかないような気がする。
自分ごと化と言語化で見える世界や解決できる物事がある以上、使えるツールとして使ってくに越したことはない。
問題は、使いすぎると確実にまずいってこと。結局、孔子の「中庸」が何事においても大事になってくるのだろう。
でもそういった他人の理論が自分に当てはまるって気づく人間、たいてい深淵覗いたことあるじゃんね。うーん難しい。
非言語のものにストッパー作るのってやりようあるのか?
1回でも深淵見たことある人間は、正気のふりができるまでで留まる・それ以上行かないよう気をつける、ってできるけどさ。
そういうこと考えない人間が死ぬまで深淵とエンカウントせずに済む方法ってないのだろうか。
現時点ではこれに答えでない。
既に出してる人いたらその論文なり理論の理解頑張るから教えてほしい。
今自分ができること
深淵にエンカウントしたことない人を救う方法はわかんないから、とりあえず自分が正気のふりできるレベルをキープするには何ができるか、だけ考えたい。
これ打ってる今だってうつ状態一歩手前のパフォーマンスだだ下がり状態。
幸い、希死念慮に襲われてないから安全ってだけ。
だから命綱なしバンジーやらかさずに問答法と問題解決に勤しむ方法を見つける必要がある。
たぶん前項で私が「入り込みすぎない」ってしたのは、自分が他人に感情移入しすぎてメンタルヘルス危うくすることが多いからだと思う。
面白い小説読んだ後、現実と虚構の区別がつかなくなる。
一人称のストーリーに浸りすぎると語り手の辛い経験が全部自分の経験だって錯覚する。
梵我一如の考え方というか、ミッドナイト・ゴスペル5話の解釈は理解しているとはいえ、悟りを開いてない自分にとって他人の苦しみは自分の苦しみじゃない。そこは自覚しなくては。
閑話休題。少なくともわたしにとって現時点では自分ごと化・言語化は必要なツールだ。
だから入り込みすぎない適度な使いこなし方を身につけようと思う。
正気のふりができるギリギリの綱渡りで、やれるとこまでやる。保てなくなったらそのときはそのとき。
次の世代のいわゆる「やさしい」人たちのための実験台だ。とりあえずはそれでいく。
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