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おばぁちゃんの日記

朝から通り雨。
さぁっと降ったと思ったら、陽が差して、
晴れたと思ったら、またさぁっと来る。
念のために折り畳みかさを持って買い物に出かけたら、案の定、スーパーに行く途中でまたいきなり大粒の雨が落ちてきた。
傘をさそうと立ち止まった時に、大きな白いものが目の端に映り、何気なく首を伸ばすと、道筋からちょっと入ったところの庭先でシーツが濡れているのが見えた。
ああ、と思うけれど、どうしようもない。
その時、白いシーツの陰から慌てた様子のおばあさんの姿が見えた。雨に濡れながら一生懸命にシーツを外そうとしているけれど、小さなおばあさんには容易ではなさそうだ。
雨は止まない。おばあさんも諦めない。思い余って、走った。
「おばあちゃん中に入って。私が取ります」
びっくり顔のおばあさんはそそくさと縁側に戻り、腰掛けてからお辞儀をしている。ホッとしたらしい。
シーツやら下着やらタオルやら取り終えると、おばあさんの横に腰掛けて、雨が止むのを待つことにする。止んだらまた干してあげよう。
「ありがとう。助かりました。うっかり雨に気付かんでね」と苦笑いをしている。
「通り雨です。すぐに止むと思います」
「そうですね。どれ、お茶でもいれましょう」
そう言って、どっこいしょと部屋の中に入って行った。
「いえいえ、スーパーに行く途中なのでお構いなく」
「そう言わずに、少し話していかんね」
おばあさんに促されて、家の中に入ることにした。
広い縁側に続く6畳ほどの和室にはテーブルと小さな食器棚があるきりで、どこか懐かしい雰囲気の落ち着いた部屋だった。
おばあさんはテーブルの横に置いてあった茶櫃から新しい湯呑を出し、私と自分の為にお茶を入れてから
「どなたさん、やったかね」とにこにこと聞く。
私を知り合いだと思っていたらしい。
「すみません。図々しく上がってしまいました。おばあちゃんが洗濯物を取り込むのが大変そうだったので飛び込んできました」
恐縮して冷や汗がでる。
「あらま」
「初めまして、です。ありあといいます」
「まあまあ、ご迷惑をかけてしまいましたね。ありがとうございます」
座ったままに身体を少しずって頭を下げた。そして、ゆっくりとテーブルの上に置いてあった白いノートを手元に引き寄せた。
「ありあさんね」
私の顔をちょっと見て、まるで確認するかのようにそのノートを開くと、すぐに
「初めてですね。よろしくお願いします」と言う。
やっぱり確認していたらしい。
「そのノートに私の事が書いてありましたか」
「いえいえ、あなたの事は何も書いてありませんでしたよ。初めてです。思い出はありません」
どういうことだろう。
「そのノートはなんですか?」
「これは私の日記です」
「ああ、日記ですね・・・」分かるような、わからないような。
日記を開いただけで、私が初めて会う人だと分かるのだろうか。しかも、首を伸ばして覗いても真っ白いページしか見えない。
怪訝そうに見ている私に、おばあさんはお茶を一口飲んでからゆっくりと話し出した。
「いろんなことをすぐに忘れてしまうんですよ。人の名前とか、どこの人とか、もっといろんなことを。みんなです。自分の子どもの事まで忘れてしまいそうで寂しいです」
いやいや、他人ごとではない気もする。
「この日記はね」おばあさんは続けた。
「私の思い出を、代わりに覚えていてくれるんです。思い出したいことを想って、この日記を開くと思い出がどんどん頭に浮かんでくるんですよ」
おばあさんは愛おしそうに楽しそうに話してくれる。
「いいですね」
否定してはいけないと思うけれど、理解はできなかった。
「見せてもらってもいいですか」
「どうぞ」
おばあさんが差しだしたその日記はB5版ほどの大きさで表紙に小さく「つよこの日記」と書いてあって、
中は真っ白いページがわずかにつづられているだけの薄いものだった。
「つよこさんとおっしゃるのですか」
「はい。そのようです」照れたように少し俯きながら頷く。
「何も・・」書いてないですねと言いそうになって、言葉を吞み込んだ。

「子供さんはいらっしゃるのですか」
ちょっと戸惑ったように遠くに目をはせてから、私の手にある日記に手を伸ばしてきた。慌てて返すと、ゆっくりと開いて眺め、みるみる笑顔になった。
「はい。息子と娘がおります。息子は近くに住んでおりますので時々来てくれますよ」
ああ、そういう日記なんだ、と分かったような気がした。
私が開いても、何も浮かんでこないけれど、おばあさんが開くといろんな思い出が見えるらしい。少なくとも、思い出をたどるきっかけになる日記なのだろうと思った。
「いい日記ですね」
「はい。いつの間にかここにありました」

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