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”新卒切符”をドブに捨てたらたいへんなことになった話。

新卒の時に就職活動をしなかった人、と聞いて、読者の皆様(あるいは世間の皆様)はどんな人物を思い浮かべるのだろうか。


起業家?
うん、学生の間にビジネスを立ち上げてしまって、しかも成功させてしまうようなすごい人もいる。


弁護士?医者?学者?
なるほど、このあたりの職業もいわゆる「新卒一括採用」とは縁遠いのかもしれない。
詳しい内情はよくわからないけれども(「よくわからないけど」は筆者の文癖(口癖)みたいなものです)、少なくとも一般の学生が参加する合同説明会みたいな、俗に言う「就活フェア」には姿を見せないのだろうと思う。


はたまた、ニート、あるいはフリーター。
そういう人もいるだろうし、私もそれに近いものにはなった(近いどころか正真正銘のニートをやりました)。


ただ、私の場合は一度正社員として就職してから、その会社を辞めて(精神を病みまして)から1年以上に及ぶニート生活に入ったので、新卒でニートになったわけではなく、そこはまあ、ちょっと違うといえば違うのでございます。


新卒採用の時期、つまり大学3年生の終わり頃(今はもっと早いのかな?)、周囲の同世代が企業のOB訪問や合同説明会、適性検査やSPIといった就職診断テスト、それからエントリーシート作成や100回はやってるんじゃないかと思うような数次に渡る面接に明け暮れる中、私は何もしなかった。


何もしなかった。そう、本当に文字通り・字句通り”何もしなかった”。


リクルート・スーツを着るどころか「洋服の青山」やら「AOKI」やらに入ったこともなく、というかスーツというものに指一本触れすらしなかった。
エントリーシートがどんなものかも知らなかった(今も知らない)し、合同説明会に足を運んだこともない(いつどこでやってたのかも知らない)。
適性検査?SPI?なんですか、それは?



そういうわけなので、もちろん、面接も受けなかったし、履歴書すら出さないまま、私の「新卒一括採用」は終わった。


私が新卒で就活をしなかった理由は、それはまあ、ひどいものでございまして。
多くの人は「え、嘘でしょ?」「冗談じゃないの?」と感じることかと想像してみたり。
でも、それと同じくらい「まあ、たしかに、わからなくもない」という部分もあるような気がしなくもない。



「なんとなく、やりたくないと思ったから」 以上。


そんな話でもよければ、どうぞ暇つぶしにでも続きをお読みくださいませ。


”みんなが就活してるから”人間が怖くなった。


新卒での就職活動をサイレント・ボイコットした結果、私は起業したわけでも、フリーランスになったわけでも、専門職に就いたわけでも、ニートやフリーターになったわけでもなく、地元のスイミングスクールに入社することになった(2年4ヶ月お世話になりました)。


私は「新卒切符なんてなくても、自分の力でやれます!」という起業家精神旺盛な若者でもなく、「長いものに巻かれてたまるか」と息巻く反体制的な革命家でもなく、あるいは「働いたら負けじゃん」というある意味強靭なメンタルを持つ生粋のニートでもなかった。

「就活? なんか、やりたくないな」
「リクルートスーツって、要はただの制服じゃねえか」
「『自分軸を持ちましょう』? そもそも、そんなものを求めてくる社会や周りの大人の方がそれを持っているようには見えないのはなんでやねん?」


そのような就職活動というものに対する小さな違和感と拒否感を胸に抱えたまま、悶々と頭を抱えて何も行動を起こさないでいるうちに、気がついたら我らが時代の新卒一括採用の波が終わっていた、というのが真相なのでございます。


おそらく、私だけが違和感や拒絶感を抱いていたわけではないと思う。
きっと、周りの同級生たちの中にも「あーあ」とため息つきながら、それでもダンボールで作ったみたいな仮初の「自分の軸」やら「志望動機」をどうにか拵えて、仕方なしに説明会や面接に重い足を運ぶ人もいたのだと、あるいは読者の中にもいるのであろうと、そう思う。


違和感や拒絶感? 無視してしまえばいい。目を閉じてしまえばいい。感じなかったことにしてしまえばいいじゃないか。
あなたの気持ちはわかるよ。でもね、みんなもあなたと同じように、やりたいわけではないけど、やらないといけないから頑張ってやってる。


みんな我慢している。
だれだって好きでやっているわけじゃない。
でもさ、世の中ってそういうものだから。


そんな声を何度も聞いた。
だれかが私に言ったのじゃない。
私が私に向けて発した声だった。
その声は幾度となく頭の中でリフレインし、私の虚ろな胸の中でこだまし、残響して、食パンにカビが蔓延るみたいにじりじりと精神を蝕んでいった。


周囲が就職活動一色になり、ゼミでもバイト先でも部活でも、どこに行っても就活が話題になる中で、私だけが一着のスーツも持たずエントリーシートが何かすら知らなかった。


内定もらった?
次の面接、どこ?
まだ受けるところ残ってるの?

同級生だけではなかった。バイト先の正社員も、部活に来ているOBの社会人も、あるいは春から社会人になる4年生も、みんな就活の話をした。


どの業界に入りたいの?
やっぱり公務員は安定だよね。
面接は、ありのままの自分を見せなきゃダメだよ。
え、まだ就活始めてないの?


気がついたら私は、どこにいくのも、だれに会うのも苦痛になっていた。
そして、なるべく人と関わることを避けるようになっていった。
割と仲の良かったバイト先の人も、頻繁に連絡を取っていた友だちも、そして何よりも家族も、みんな恐怖の対象だった。



結局私は、人間に会うのが怖くて、そのくせ堂々と「就活、やめた」と宣言する勇気もなくて、隠れるようにコソコソと変わることのない日常をこなしているフリをし続けていた。


なにしろ、どうして自分が就職活動をしないのかを、その時はうまく言葉で説明することができなかったから。
自分ですら納得できる理由がないのに、どうやって他人の理解なんて得られるだろうか?



ようやく今になって(だいたい6年くらいが過ぎた)、「日本社会の静かな歪み」を認識することができるようになると、なんとなく人に「こういうことじゃない?」と話せるようになったけども。


新卒切符を破棄した人間の末路について


とりあえず今のうちに「新卒で就活しなかった人間の末路」を書いておこうと思う。



私の家は子どもが働かないでも生きていけるような財力はなく、大学を卒業したら日々を糧を得るためにも仕事をせざるを得なかった。
とりあえず家の近くの塾講師の契約社員の仕事にありついてほっとしていたら、なんと「パン・デ・ミック」が日本を襲った影響で、内定が取り消されてしまった。


まいったな、と思いつつも、次の仕事を探して求人票と睨めっこする。
その中でたまたま見つけたのが「水泳指導員(スイミングインストラクター)」の正社員募集だった。
調べてみたら、個人経営の小さな単体のスクールだった。


やってみたい、とは思わなかったけども、やってみてもいいかな、とは思った。
今から振り返れば、仕事というのは「まあ、ちょっとやってみるか」くらいのいい加減な気持ちで始めてみるのがいいのかもしれない。


現代日本社会の新卒一括採用の不毛だと思うことの一つは、人間はだれしも「本当にやりたいこと」や「なりたい自分」があるという前提で制度設計されていること。
どこかに「適職」や「自分に合った職業」が潜んでいて、煙を焚いて巣穴の中のうさぎを誘き出すように、適職検査や職業カウンセリングによって「自分らしさ」を浮き彫りにして、その結果に基づいて業界や企業を選びましょう、という謎のスタンダード。



この歳になってわかったのは「自分がやりたいことは、やってみないとわからない」「やっているうちに、自分はそれがやりたかったんだと気づくことがある」ということ。というのはですね……話が逸れるのでやーめた。


で、電話で応募してみて、面接に来てくださいというので、履歴書を持参して当日。
そこで初めて「社長」と「上司」という生き物に出会い、面接官(=上司)の恐ろしい眼力(とんでもない観察力を備えた方だった)で品定めされて、よくわからないけど(文癖)後日連絡が来て「採用」されることになった。


そういうわけで、私は新卒一括採用の波に乗ることなく(呑まれる事なく)、卒業と同時に「社会人」になった。
そこでは様々な経験をさせてもらい、「大人」になるために必要なことを叩き込んでもらったので、今では感謝している。


が、だけども、しかし、日本の中小企業あるあるの例に漏れず、その会社もなかなか「黒寄りの灰色」をしていた(笑)
いつか「ブラック企業体験記」でも書こうかと思うけど、出勤時刻前の出勤、給料の出ない残業、休日出勤、鎧の巨人並みに手強い大型連勤、団体顧客の意味不明な個人攻撃的クレーム、部活の鬼顧問を思い出した厳しい叱責、お局たちのいじめ、といった限りなく「B」な出来事をたくさん経験したのでした(あははは)。


「ほら、新卒でちゃんと就活しないから、そうなるんだよ」
そんなふうに言われるのかもしれないし、まあ確かにそうなのかもしれない、と思わなくもない。



それでも、名の知れた大手企業に勤める友人や知り合いたちの話では、「給料の出る残業」や「退社後の懇親会(上司同席)」はもとより、ひどいところだと「自発的な意志(平日に仕事が終わらなくて)による休日の(無給)出勤」はなかなか避けられないそうです。
要は、日本社会ではどこにいっても問題のない会社は存在しないみたいだ……ははあ。


新卒一括採用はどこが変なのか?


「なんとなく、やりたくない」という理由で私は就職活動をしなかったわけだけども、ではどうしてそういう風に感じたのか、と考えてみても、なかなか答えは出なかった(だから苦しかったし、人に会うのが嫌になったし、何よりも自分という人間を心の底から嫌いになった)。


大学を卒業して(社会人という生き物になって)5年以上が過ぎ、正社員やニートを経験するうちに、アラサーと呼ばれる年齢になってやっと理解できたことがある。
「新卒一括採用って、企業の都合しか考えていない制度だよね」ということ。


桜の花って見たことありますか? 
お花見みたいに遠くからじゃなくて、近くでまじまじと一つ一つの花を見たこと。


人間は「満開だ〜」って喜んでいても、実は近づいて観察してみると、まだ咲いていない蕾が残っていたりする。
日のあたり加減なのか、栄養の届きにくい部分なのか。咲き遅れた桜はだいたい同じ枝先にグループで固まっているものだ。


じゃあ、その咲き遅れてしまった花に「おい、満開の時期なのだから、早く開け」と、蕾を無理やりこじ開けたりするだろうか?
しないですよね。そんなことをしたら、花が死んでしまう。


それに、咲き遅れた花の方だって、周りが一斉に花開いたからと言って「どうしよう、もうみんな咲いてるのに、自分だけ蕾のままだ…」と落ち込むだろうか

植物の気持ちはよくわからないけど、たぶん落ち込みはしないと思う。


新卒一括採用の制度がやっていることって、これと同じなのだと思う。
まだ咲いていない桜に向かって「ほら、満開の時期だよ、急いで咲かないと乗り遅れるよ」と語りかけるのと同じ。


人間だって、その人がいつ花開くかなんて、そんなのわからない。
なのに、多様であるべき若者たちを”新卒”と一括りにして、時期が来たから就活しなさいと急かす、それが日本の新卒一括採用ではないだろうか。



「悪いことは言わないから、早くした方がいいよ?」
「まだ蕾なの?とりあえず咲いたほうがいいんじゃないかなあ?」
「急かすわけじゃないけど、周りはどんどん先に行っちゃうよ?」


そんな風に無言の圧力をかけて、職業についてほとんど何も知らない大学生たちを”新規労働者”として工場から出荷するみたいに一斉に”就活市場”へと送り出す。
それが現在の大学が必死になってやっていること。こんなの、教育でもなんでもない、と私は強く思う。キュウリのパック詰でもしてやがれ。


みんなと、人と同じことを、同じ時期に、同じようにやっていたって、個性なんてものができるわけないでしょ(個性とは”自分の手で作り育て上げるもの”です)。
今の(昔のはよくわからないけど)大学という場所は、学生の独自性や人間的豊かさを育むことを支援するのではなくて、むしろそれらの芽を摘み取るための機関となって機能不全に陥っていると思う。


では、どうして「新卒一括採用」は根強く続いているのか?
答えは簡単。何よりも採用する企業にとって都合が良いから。


採用ってね、本当に面倒臭いんです。
代理店と打ち合わせして求人広告を出して、応募者に連絡をとって面接の日程を決めて、いざ面接してみたらとんでもない人が来たりして(すっぽかされることもある)、そうしたらまた次の応募者を待って、そういえば前の人の履歴書も処分しなくちゃいけなくて、でもっていざ雇ってみたらろくでもなかったりしてさあどうしようか……そういうのを繰り返す。
お金、時間、労力、人手。労働者1人を雇うためだけに、目に見えるものから見えないものまで実にいろいろなコストがかかるのです。


就職活動の時期を限定してしまえば、広告を出す期間は明確になるし、人事部の予定を調整しやすいし、履歴書で選別したりグループセッションにすればまとまった数の応募者を一気に捌ける。
もし新卒一括採用をやめて1年中採用を行おうとすれば、いちいち応募者の対応をして、その度に面接官を用意して、場所をセッティングして、求人広告費を出し続けて……


企業にとって新卒一括採用はやめられない。なぜなら、やめたらコストが一気に増えるから。
だから、学生の多様性や個性を犠牲にすることを承知の上で(というかそんなものどうでもいいと思っているのが本音じゃなかろうか)、経済界はこのシステムを続けている。


私は、この先も新卒一括採用がなくなることはないと思う。
「クリエイティブな人材がいない」と言われるけど、そんなの当たり前じゃないか。
みんなと同じことを、同じ時期に、同じ方法でやることを当たり前だと感じるような感性しか持たない若者たちに(感性もまた自分で鍛え練り上げるものだから)、「この世界にない新たなものを作り出す能力=創造性」なんてものを求める方がそもそも間違っていると思いませんか?



本当のことをいえば、企業はクリエイティビティとか創造性なんて求めていない。
もしも才能があったり優れた発想力を持つ人が入ってきたら、実はその人は組織にとって邪魔になる可能性が高いから(その理由はですね……脱線するからやめよう)。


むしろ、新卒一括採用のような既存のシステムに対して疑問を感じない人の方が好ましいし、もっといえば「疑問や違和感は感じるけど、それをグッと飲み込んで一所懸命に就活に励むことができる学生」はすごく好ましい。
そういう人は「建前と本音」を分けれる人と評価されて、入社後も高い確率で「組織の理不尽」に耐えてくれると期待できるから。


そういうわけなので、新卒一括採用はそれが学生たちの個性や多様性をどれほど踏み躙るシステムであろうとも、企業の論理からすれば撤廃することのできない、というよりは企業にとって好ましい制度であり続けるのです。


新卒切符を捨てても人生は終わらない


いつも通り特にオチのない記事なのだけど、実際に新卒切符をドブに捨ててみた(気がついたら期限切れになっていた、の方が正確かも)私から読者が学べることは、「就活しなかったくらいで人生は終わらない」ということ。


「就活失敗したから人生終わった」


あのねえ、就活がうまくいかなかったくらいで人生が終わってくれるなら、そんな楽なことはないのよ(笑)
人生がどこの会社や組織に入るかで決まってくれるなら、そんな楽なことはないんだって。
失敗しました、はい、終わり、ってなってくれるほど甘くはないんだよ。


失敗したって、明日も息してるんだよ、どうせ。
失敗したって、だれかが殺してくれるわけじゃないんだよ。
呼吸は止まらないし、お腹も減るし、どうでもいいこと考えて、綺麗な女の子を目にしたらドキドキして、夜になったら眠くなるんだ。


失敗したって、転んだって、躓いたって、何もかもが終わったような気分になったって、この心臓は鼓動を止めてはくれないんだよ。
どんなに強く望んだって、この身体はいつの間にか死んではくれないんだよ。



朝起きたら、昨日の続きがあるだけ。
目が覚めたら死んでました、なんて幸せな幻想は、残酷なまでに眩しい朝陽に消されてしまうんだ。


死ぬのだって、簡単じゃなかった。ひとつの命を終わらせることがこんなにも難しいことだなんて、ちっとも知らなかった。死にたい、楽になりたい、解放されたい、もう許してください、ダメな人間なりに頑張ってみせたからって、毎日念仏みたいにぶつぶつ唱えてみたって、私の人生は終わらなかった。


人生というものはだね(ドヤア)、失敗した人間にすら始めることを求めてくる。
失敗したところから「ほら、そこからどうするつもりだい?」って、死体蹴りするのが人生様の趣味らしい。


新卒切符をドブに捨てたらどうなるか?


残念だけど、その答えはまだわからないままでございます。
私はまだ生きているから。
ただ、ひとつだけ言えることは、自分の心が発する頼りない「なんとなく」を信じた先には、案外、自分が本当に求めていたものがあるのかもしれない、ってこと。



私が疑いながらも信じてしまった「なんとなく」は、「私が、私を生きること」に繋がっていたのだと知るまでにはずいぶん長い時間がかかったけど、それでもあの時に「なんとなく」を信じてよかったんじゃないかな、と思ってみたりする今日この頃。



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