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【自己紹介①】災害をまなざすにあたって

はじめのはじめの自己紹介

はじめまして。ゴマタニシと申します。
名前の由来はタニシとゴマが好きだということです。
次の投稿で詳しく話しますが、最近YouTubeを始めました。
突然ですが、最初に簡単に自己紹介をさせてください。この先の話の前提となるので。

中学生の時、ふとしたことがきっかけで「社会って変なことばかりだな」と思うようになり、社会問題に取り組みたいという気持ちが芽生えました。
時を経て「僕も周りの人も知らないことが多すぎる。教える、知ることが社会問題を解決して、世の中をよくするぞ!」と考えるに至り、教育を志すようになりました。もうじき教員免許も取得する予定です。

でも進路は教育にはなりませんでした。
教育方面の学びを深め、人脈を広げていく中で、自分のフィールドは他のところにあるような気がしてきたのです。
そしてそれと同時に災害への関心が高まっていきました。

なぜ災害に取り組むのか

幼いころから災害に関心はあったのです。きっかけは火山の映像をテレビで見て、「こんなので死にたくないな~」と思った程度のことでした。
でも直接災害に触れたことはありませんでした。
自分が被災したこともなかったし、東日本大震災の時はまだ小学生。気にはなるけど、災害はどこか遠い存在のように感じていました。

転機が訪れたのは3年前こと。知人の紹介を通して初めて災害ボランティアに参加しました。そこで経験したことはテレビでは報じられない、報じられていても画面越しでは感じることのできない実態。
被災地で起きていることに衝撃を受けました。
それと同時に、災害支援の必要性ややりがい、人の暖かさを感じました。

「力になりたいけど何ができるんだろう。」

そう不安に思いながら取り組んだ初めての災害ボランティアは、むしろ僕の心の支えになりました。小さいながら確実に力になることもできました。

これを機に本格的に災害に関心を持つようになります。
ある時は大学を休んで被災地に入り、ある時は支援活動のリーダーとして活動し、3.11を東北の地で迎えたこともありました。

支援活動に携わるだけでなく、同時に災害について学ぶことも本格化させました。
専攻している社会学との相性が良かったのも好都合でした。
いつしか、現場での支援や防災活動と、災害社会学の研究を融合して、実践的な研究をすることで社会に貢献することができないか、と考えるようになりました。

研究のテーマが災害に絞られ、これからもっと活動と研究を本格化させよう。そんな矢先に生じたのが、コロナ禍です。

コロナ禍で感じた一つの限界

災害社会学の世界では、災害が問題を生み出すのではなく、災害が社会が潜在的に抱えていた問題を顕在化させると言います。コロナ禍がもたらしたものはまさにそれでした。
教育を志していたころ、無関心を関心に変えることが何よりも大切だと考えていました。そのツールとしての教育に可能性を感じていたのです。

今でもその重要性は感じています。でも、中途半端な関心はかえってやっかいだということをコロナ禍に突き付けられました
これはデータに基づく話ではないことをはじめに断っておきますが、だれもが直面する”災害”となったコロナ禍。当初はこれを機に有事の際の災害対応に向けたそなえが進むことを期待していました。
でも、いざ蓋を開けてみると待ち受けていたのは、科学的医学的根拠よりも個人の立場による利害関係に基づく主張、印象論に基づく批判、デマの流布、公助の限界と制限される共助。。。
言葉を選ばずに言うと、そんなことを言うくらいなら興味を持つなと言いたくなるような言説を数多く目にしてきました。(もちろんみんながみんなそういうわけではないです。)

社会問題は「自分に関係ないからどうでもいい」と思ってしまえばそれまでです。でも、災害という社会問題は関心のない人ほど、いざという時に困難に直面するものだと思います。
実際、被災地で活動していると必ずと言っていいほど「まさか自分が被災するとは」「そなえが甘かった」という声を耳にします。そして彼らはこうも言います。「経験したからこそ言えることがある。」と。コロナについても「感染したから伝えたい」という話をニュースやSNSでよく目にします。

このこと自体を批判したいわけではありません。絶対に必要なことだし、得られた教訓もたくさんあります。
でも、それは被災しつつも死なずに済んだから言えることです。
被災した時に受けた被害があることも事実です。


直面してからでは遅い。でも、直面するまで関心を示さない。
関心があっても不十分な理解や都合のいい解釈が悲劇を生み、わめく当事者や冷笑主義者の心無い言葉を導く。
この現状を何とかしたいのです。

娯楽との融合の道を探る

そして僕は無関心を関心に変えるだけじゃダメだと思うようになりました。
悲しいことに、特に同世代の若者であればなおさらです。

とある新聞社の方からは、『記事のタイトルに「戦争」「災害」が入ると顕著に読まれる割合が減る。届けたいことほど届けるのが難しい。』ということも聞きました。

つまり、関心を持たせることは難しい。でも、物見遊山のような関心を持たせるのは余計にマズいし、そもそも興味を持たれない。

なんじゃこりゃ。じゃあどうしたらいいんだ。
色々考えた末に辿りついた回答が娯楽と災害を組み合わせるという手段です。YouTubeを始めたのもその一環です。

ここだけ切り取ると不謹慎やらなんやら言われそうですし、考えていることを詳しく書いていきたいのですが、長くなるので今回は一旦ここまで。
次の投稿でお話しようと思います。
ではでは、また次回お会いしましょう。

【P.S.】
こんな半端なところで終わるのは心外ですし、今後の投稿をお届けしたり、深い交流をしたりできると嬉しいです。
note,twitterのフォロー、YouTubeのチャンネル登録、是非ともよろしくお願いいたします。


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