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【読書感想文】「女ぎらい ニッポンのミソジニー」

 明けましておめでとうございます。

 去年から始めたnoteですが、更新をさぼっていました…今年はもう少し読んだ本や見た映画についての感想を書くことを目標にしたいと思います。

 本年一つ目の感想文は『女ぎらい ニッポンのミソジニー』上野千鶴子著です。2010年発行ということで、さほど新しい本というわけではありません。ですが、本年一冊目に私が新しいことに触れ合えたことを感謝できる本となりました。

 出会いは、去年の年末に年末年始の休みに読む本を図書館で探していたところ、たまたまみつけました。 
 上野千鶴子先生のお名前はフェミニストやジェンダー研究の方としてなんとなく聞いたことはあったし、ミソジニーもなんとなく聞いたことはあった。けれど、ミソジニー=女性蔑視?女性嫌悪?それ以上はよく分からない…よし、これを読んでちょっと勉強してみよう!とページを開いてみました。

 読み始めるや否や、「お、オモシロイ!なんだ、このすっきりする感覚は!」と一気に読んでしまいました(いえ、分厚いのでそれなりに読むの時間かかりました。読むのが遅い…)。

 こちらが若い(もうそれほど若くはないが)女性だとみるや否や、街角で知らないおじいさんに「携帯を見過ぎや」などと説教され腹を立てたのも、十数年前の学生の頃に男子たちが「女には分からないよな」という顔をして集まって馬鹿騒ぎしていたのも、そういう男子と仲良くなって付き合いたい!と媚びを売っていた私も、すべてすべて背後にはミソジニーがあったのか!

 とりわけ分かりやすかったのが、ホモソーシャル、ホモフォビア、ミソジニーの三点セットの説明です。上野はイヴ・セジウィックの論をもとに異性愛秩序の3点セットとして上の3つを挙げています。
・ホモソーシャル(性的であることを抑圧した男同士の絆)
  :男同士で互いに男と認め合った者たちの連携
・ホモフォビア(同性愛恐怖)
  :男の欲望を女にさしむけるための、同性の男に対する欲望の禁止
・ミソジニー(女性嫌悪)
  :男同士の連帯から排除され、欲望の対象となる女の他者化

 男は互いに男と認め合ったものたちの間で連帯(ホモソーシャリティ)をつくりだす。それはあくまで性的に主体と認め合った者同士の集まりであり、その集まりの中ではお互いを客体化するホモセクシュアルなまなざしは危険なものとして排除される(ホモフォビア)。だが、ホモソーシャルとホモセクシュアルとは区別しにくいために、ホモフォビアはさらに過酷なものとなっていく。ホモソーシャルな男たちが自らの性的主体性を確認するために行うのが、女を性的客体化、すなわち「女をモノにする」ことである。その結果、女を自らと同等な性的主体とは認めないために、ミソジニーが生じる。
 つまり、「ホモソーシャリティは、ミソジニーによって成り立ち、ホモフォビアによって維持される」のである。

 この三点セットをもとに上野は近代家庭のなかに生じてきたミソジニーや児童性虐待や皇室、春画のなかにみられるミソジニーなど、日本におけるミソジニーを徹底的に暴いていきます。上野のなかに徹底してみられるまなざしが「セクシュアリティの歴史化、すなわち脱自然化」であり、男性と女性のジェンダーにおける非対称性です。読めばよむほど、男性と女性の非対称性が浮かび上がってきますし、それが歴史のなかで作りあげられてきたものであり、自然に生じてきたものではないことが暴かれます。

 「女がいつ女になるか?」という問いに対し、上野はこう語っています。「自分の身体が男の性的欲望の対象になると自覚したとき、その年齢にかかわらず、少女にとって思春期は始まる」。今の世の中では、女は自らのジェンダーですら、自ら主体的につかみとるのではなく、男の性的客体になることでしか女になれないのか、というこの絶望感。
 一方で、そういったことに何の疑問も抱かずに、男に選び取られること、結婚することが幸せになることの最低必要条件、と思ってきた自分への嫌悪感。これが女が女に感じるミソジニー(自己嫌悪)ということなのか。
 知らずにミソジニーの存在する世界のなかで決められた幸せに浸っていた自分、だが知ってしまったがゆえに、これまでの自分を恥じること。無知というのはなんと恐ろしいことなのか、とつきつけられます。

 この本の最終章は「ミソジニーは超えられるか」という主題で締めくくられています。男がミソジニーを超える道筋として、上野は、「身体を他者化することを止めること」と述べています。それは「『男でなくなる』恐怖に打ち克つこと」だと。
 この本が出てから13年。ミソジニーに打ち克つことは今現在においてもなかなか困難なことではないかというのが私の正直な印象です。上野は男がミソジニーを超える方法として「身体性につながる性、妊娠、出産、子育てを『女の領域』と見なすのを、止めることだ」と書いてあります。
 この文言が、男たちのいい言い訳に使われそうな気がします。今や至るところで男女同権であり、男性も女性同様にケア的役割をすることが叫ばれています。
(  例えば、 2015年に国連サミットにおいて全ての加盟国が同意したSDGs 目標5ジェンダ平等を実現しよう。

https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/SDGs_pamphlet.pdf

 や、    
男女共同参画社会②社会における制度または慣行についての配慮

など。)
 イクメンなんていう言葉も使われてきました。

 ですが、こういった、男性も女性同様に家事やケア的役割を担おうというアピールがされればされるほど、先進的(だと自認している)な男性は「俺はやってるぜ」「女性蔑視なんてしてないぜ」という言い訳が進んでいってしまうような気がするのです。そして、「俺はミソジニーなんてこれっぽちもない」と思い込んでいる男性のほうが、「男性の俺がどうして女の役割をしなきゃいけないんだ」という今や昭和(と言われる)男性よりも、実は自分のなかに「ミソジニー」の部分があるということを自覚することが難しいような気がするのです。だから自分のなかに女性蔑視があることを絶対に認めない。だって「俺はこれまで女性がやってきた家事や育児もやってやってるんだから」。
 上野先生が暴いた、現在の異性愛秩序の世界の中にもうすでに、ホモソーシャル・ホモフォビア・ミソジニーという文化が自然と組み込まれてしまっている、意識しなければ刷り込まれていることに気がつかずに生きている、そういった本質的なところがもっと理解されなければ、「男性も女性同様にケア的役割を担いましょう」だなんてスローガンだけ進んでいっても意味がない。
 「だって俺は先進的な人間だから、男女平等だなんて言葉知ってるし、やってるぜ」。それはあくまで今の非対称な世界のなかでの強者の言い訳でしかすぎないのだから。

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