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【短編小説】月とシードラ

壁はどこにでも存在する。
僕の中にも、僕の外にも存在する。
時に、壁は僕を外敵から守ってくれる。
時に、壁は僕を押し挟み、肺を圧迫する。
時に、壁は僕を他者から切り離し、孤独にする。

有馬は、長期休暇の申請書を提出するのに一年を要した。
もっともらしい理由が見つからなかったのと、自分だけ仕事を休むことにうしろめたさを感じていたからだ。
ついに痺れを切らした有馬は、最終的に「体調不良のため」という抽象的な理由だけを添え、勇気を奮い立たせて会社に提出した。提出してしまえば、意外とあっさり通ってしまった。
暗い四畳半の部屋の隅に身体を預け、「やっと壁から解放されるかもしれない」と気の抜けた声を涙と共に吐き出した。
無事長期休暇をとれた有馬は、幼なじみである伊東を誘い、スペインへと旅立った。成田空港から約三十時間かけて、二人はアストゥリアス空港に到着した。スペイン北西部にあるアストゥリアス州は、入り組んだ海岸線と険しい山脈に挟まれた自然豊かな環境にある。
小さな街オビエドには、中世の城壁やカトリック教会など歴史的建造物が立ち並ぶ。旧市街の市場を抜け、観光客と地元の人々が交じり合う中心地にはカフェやレストランに囲まれたフォンタン広場がある。それぞれのテラス席にパラソルが並べられ、そのパラソルよりも背の高い街灯がシンボリックな存在として広場に直立していた。
「早くシードラ飲みに行こうぜ。汗も止まんねえし喉もカラカラだぜ」
伊東は額から垂れる汗を袖で拭いながら有馬に訴えった。シードラとは、特産品のリンゴから作られる甘口の発泡酒のことである。
アストゥリアス空港からオビエドまでバスで一時間。その間、二人は飲まず食わずで移動し続けていた。
彼らは今、乾ききった喉を潤すため、フォンタン広場にあるシードラが飲めるレストランを目指していた。
「まだ六月なのに三十度超えてるらしいからな。店内が涼しかったらいいけど」と有馬が言った。
「えーパラソルの下で食べねえのかよ」
「外だと暑くないか?」
「何言ってんだ。パラソルの下で広場に行き交う人々を眺めながら食べるのが粋なんだよ。オシャレは我慢とも言うだろ?」
「べつにどっちでもいいけど」
レストランの扉を開くと同時に、癒しの魔法のような心地よい冷風が前方から飛び込んできた。
「生き返るー。もちろん店内で食べるっしょ?」
「どっちだよ」
数分前の記憶をリセットしたかのように、伊東はワイシャツの襟元をばたつかせながら店内の奥へと進んでいく。
有馬たちは適当な席に着くと、背の高いストライプ柄のシャツを着た店員に、シードラと、白いんげんやチョリソー、野菜などを煮込んだアストゥリアス風ファバーダを注文した。
ストライプ柄の店員は、有馬たちの目の前にグラスを2つ用意すると、ボトルを頭の高さで構えた。そのままボトルを傾け、腰下に構えたグラスにシードラを注ぎだす。黄色い滝のように、シードラがグラスを叩きながらコトコトと音を鳴らした。
「うわさでは聞いてたけどすげーパフォーマンスだな」
伊東はその光景に目を輝かせていた。
「これはパフォーマンスじゃなくてちゃんと意味があるんだよ。高い位置からグラスに注ぐことで空気を混ぜてるんだ。そうすると泡立ちが強まる」
「たしかにすげー泡立ってる」
「この泡が消えないうちに飲み干すのがアストゥリアスの流儀らしい」
「おまえ詳しいな」
「まあ事前に調べてきたからな」
2人は乾杯をし、一気にシードラを飲み干す。
芳醇な香りが鼻を抜け、まろやかな風味が口に広がる。日本での鬱屈とした日々の蓄積がシードラの泡で洗い流されるように、著しい爽快感が全身を駆け巡る。有馬は思わず「クー」と叫び出しそうになっていた。
「クー」
伊東は有馬の感情を代弁するかのように、顔全体で高揚感を表現し、気持ちよさそうに唸った。
「マジのマジで生き返る。飲みやすいから何杯でもいけるぜ」
そう伊東が口にすると同時に、次のシードラがまたグラスに注がれた。
「クーうめー。まじでスペイン来て良かったぜ。誘ってくれてサンキューな」
「ああ、おまえを見てると羨ましいよ」
「何がだ?」
「いやべつに」
「そういえば何で旅行先をスペインにしたんだ?」
「日本から遠い場所に行きたかっただけさ」
「なんかあったのか?」
「いやべつに。たまたま休みが取れたから羽を伸ばしたかっただけだよ」
「嘘つけ。陰気臭い顔しやがって。あーそれはいつもか」
伊東はケラケラと笑いながら、シードラを喉に流し込む。
「まあおまえのことだ。どうせ人付き合いに疲れたとかなんかだろ。俺もそうさ。ニートしてたらどいつもこいつも嫌な目で俺を見てくる。まるで違う生き物を見るような目でな。俺は全然気にならんが。働く必要はねえんだからニートでもいいだろ。な?」
「二ーニョ?」
突然、彼らの隣のテーブルから声が差し込まれた。二人がその声主に視線を向けると、真っ赤な布シャツを着た大柄のスペイン人男性が満面の笑みでグラスとボトルを持ち上げていた。
「ノーノー。ニート、ニート」
伊東は身振り手振りでスペイン人にニートを説明する。
「ニーニョ」「ニート」とお互いが言葉を掛け合い続けていると、いつの間にかその二人は意気揚々と肩を組みながら笑いあっていた。
有馬はその様子を傍観しながら黙ってグラスを口につける。
「レッツ ドリンク トゥギャザー」とカタコト英語で話す赤シャツの男に対して、伊東も「イエスイエス」とカタコト英語で返す。
「ほらおまえも」
伊東はグラスを持った有馬の手を自分らの方に無理やり引っ張る。
「チアーズ」
有馬も巻き込まれる形で三人はグラスを交わした。
そこからはカタコト英語と身振り手振りで異文化交流をしていた。
最初、有馬は二人のやり取りをただ聞くことに徹していたが、しばらくすると、自然に自分も話題に参加していた。
シードラのオカワリを繰り返し、談笑しながら食事も済ませると、日はすっかり地平線の下に潜り込み、辺りは暗くなっていた。伊東も机の下に潜り込むように身体を縮め、いびきをかいていた。
「あなたは何か抱え込んでいますね」
赤シャツの男は突然有馬の目を見て話しかけた。
「わたしでよければ聞きますよ」
有馬は一瞬ためらったが、酔いが回っているせいか、初めて自分の悩みを人に打ち明けた。
「あの……、壁が襲ってくるんです」
伝わらないことを承知で有馬は話を続けた。
「どこからか現れた壁が僕を囲むように迫ってくるんです。逃げ場をなくさせて、僕を追い込み、押しつぶそうと圧迫してくるんです。幻覚ではなく本当に……」
赤シャツの男は最後まで黙って有馬の話を聞いていた。
「頭おかしいですよね。病院に行くのも怖くて行ってないですが早く行った方がいいですよね」
有馬は乾いた笑顔を見せると、床に視線を落した。
「大丈夫。今日シードラがその壁を溶かしてくれた。でもまた壁が現れたら月に耳を傾けるといい。月はあなたがどこにいても助けてくれる」
そう言い残すと、赤シャツの男は一足先に店を出ていった。
有馬も眠りこくった伊東を叩き起こし、店を後にした。
フォンタン広場は月光に照らされ、賑やかな日中にはなかった魅惑的な静かさが石畳の上に漂っていた。
「夜は涼しいな」
「そだな……」
朦朧とした意識で踊る伊東は、地面にひれ伏す形で再び眠ってしまった。
有馬は伊東を起こすのを諦め、その場に座り込んで夜空を見上げた。
「本当に壁はなくなったのか? 日本に戻ったらまた僕を襲ってくるんじゃ……」
そう月に問いかけた瞬間、フォンタン広場を取り囲む建物の壁が天に向かって成長し、パラソルや街灯を蹴散らしながら中央に迫り寄ってくる。壁は地面をえぐる音を立てながら、毎分2メートルほどの速度でじわりじわりと有馬を圧迫する。
その時、伊東どころか、周りには有馬以外誰もいなかった。
「どこまで追ってきてるんだよ。溶けたんじゃないのかよ」
行き場のない怒りを赤シャツの男にすべてぶつけるように彼を恨んだ。有馬はその男に話したことを後悔した。
この壁が近づけば近づくほど、得体の知れない嫌悪感が体の奥底から湧き上がってくる。徐々に手足がしびれ、動悸が早くなる。気管に痰が詰まった感覚に陥り、息が吸いづらくなる。有馬は世界を呪い、自分を呪った。
壁はついに有馬を四畳半ほどの空間に閉じ込めた。そこでいったん動きを止めた壁に有馬は壊れた人形のようにだらしなくもたれかかる。
すると頭上から一本の鋭い光が降ってきた。
「壁にもたれるのは壁の存在を認めているからだ。壁の存在を認めなければ壁はなくなる」
赤シャツの男が言った通り、月の方から不思議な声が聞こえた。
赤シャツの男を責めたことを後悔しながら、その聞こえた声を反芻する。
しかし、酔いと疲労と頭痛で混乱した脳みそでいくら考えてもどういう意味かわからなかった。その壁にもたれかかった身体を起こしても壁は消えてくれなかった。
「わざわざ越境して日常から離れたのにこれじゃあ何のために休暇をとったのかもわからない」
そう嘆いた時、有馬はあることに気づく。
「越境」という言葉にも「壁」が隠れている。そこに区切られた線や壁がなければ越境とは言わない。自分は気づかないうちにその壁を設けていたのか。
そのことに気づいた時、あったはずの壁を通り抜けるようにして野良猫が有馬の元に歩み寄ってきた。

「ありまー帰るぞー」
さっきまでのたれこんでいた伊東が左右に揺れながら立ち上がり有馬を手招きする。
「そうだな」
「なんか顔変わったな。血色がいいぞ」
「かなりシードラを飲んだからな。それよりも今度また赤シャツの男に会ったら謝りたい」
「何かやらかしたのか」
「いや。ホテルに戻ったら全部話すよ」
「おーおまえが自分のこと話してくれるの珍しいな」
「ああ、そうだな」
月が示す道に沿って、彼らは肩を貸し合いながら歩いていった。


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