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おばあちゃんが死ぬとき、わたしは泣くのだろうか

わたしのおばあちゃんは独裁者だ。

自己中で、自分の周りのもの、人、すべて自分のためにあると思っている。そしてそれを悪びれもせず、当たり前だと思っているのだ。”独裁者”だなんて、およそ身内に使う言葉ではないが、実際そうなんだから仕方ない。

そんな独裁者と、わたしたち家族の戦いの記録をここに残しておく。

これまでの記録

わたしたち家族が、祖父母と暮らし始めたのは、わたしが小学校に上がったころだった。変な色付きのメガネをかけ、派手な花柄の服を着て。いわゆる、”ザ・大阪のおばちゃん”だったおばあちゃんを、子供ながらに「ちょっと変わった人だな」と思ったのを今でも覚えている。そして、変わっていたのは見た目だけではなかった。

「お年玉なんかいらんやろ?」

齢10歳にも満たない孫に、おばあちゃんが言った言葉だ。びっくりしすぎて開いた口がふさがらなかったのを、今でも覚えている。そう、おばあちゃんは超がつくほどのケチだったのだ。それこそ、孫へのお年玉をケチるほどの。そして、幼いわたしはこう思った。

「わたしの思ってた”おばあちゃん”と違う」

おばあちゃんって、孫が大好きなもんじゃないのか?ドラマなんかでよく見る、孫になんでも買い与えるおばあちゃんは幻だったのか?おばあちゃんが変なのはそれだけではなかった。一緒に暮らす”わたしと妹”と、”そのほかの孫”の扱いがあきらかに違うのだ。とくに男の孫はめちゃくちゃ可愛がっていて、お年玉はもちろんのこと、お菓子とかもジャンジャン買っていた。根っからのケチではなく”人を選んでいた”のだ。孫に対してもそんな感じだから、嫁であるわたしの母への扱いはもっとひどかった。とにかく家の中のことは、すべておばあちゃんの言うとおりにしないと気が済まないらしく、ちょっとでもルール違反を犯すと、「あれはこうしなさいと前に言ったでしょ」と嫌味を書き連ねた手紙を家中に貼り付けてくるのだ。一度、その独裁政治に嫌気がさして、おばあちゃんに反抗したことがあった。その翌日、わたしたち家族の”靴”がすべて玄関の外に放りだされていた。うそだと思うかもしれないが、ぜんぶほんとのことだ。というか、もはやこのようなことは日常茶飯事だった。身体的な虐待こそ受けていないものの、口に出すのも申し訳ないくらい”しょうもない嫌がらせ”が続き、それは確実なストレスとなっていた。そして、幼いわたしは思った。

「うちのおばあちゃんは、やばい人かもしれない」

この時点ではまだ、”かもしれない”だった。「おばあちゃんを信じたい」という、いたいけな気持ちがあったのだ。だが、その”かもしれない”が確信に変わる出来事が起きた。それはわたしが高校生のとき。

きっかけは、おじいちゃんが認知症になったことだった。

おじいちゃんはとても優しい人だった。独裁者であるおばあちゃんの目をかいくぐって、わたしと妹にいろんな物を買ってくれたり、よく一緒に遊んでくれたりした。大好きだった。そんなおじいちゃんがどんどん"知らない人"になっていく。いろんなことや、人を忘れていく。それは、とても恐ろしくて、でも、どうしようもできなくて。そんな恐怖と無力感を、ともに暮らす家族全員が感じていた。この時も、一番大変な想いをしていたのは母だった。仕事や学校で家にいない父とわたしたちの分まで、おじいちゃんの世話をしてくれていた。食事の介助や、それこそ、下の世話まですべて。そんな母に対し、おばあちゃんからの感謝の言葉は一切なかった。自分はただ「ああしろ、こうしろ」と指示するだけで、すべて母や、わたしたちにやらせていた。そんな日々が続いていた、ある日。

おじいちゃんがいなくなった。

認知症の症状のひとつである、徘徊。昼夜関係なく家を抜け出しては、あてもなく彷徨う。それを、わたしのおじいちゃんもよくやっていた。だが、その日おじいちゃんが出ていったのは、家族が寝静まった深夜だった。出ていったことにすぐ気づけなかった。どこかで事故にあっているかもしれない。不安でたまらなくて、家を飛び出して、家族全員で探した。幸い、おじいちゃんは無事だった。でも、どこかで転んだのか、足に擦り傷ができていた。まだ元気だったころ、幼いわたしを抱き上げてくれた力強さなど、一切感じられないやせ細った体で、ゆっくりと暗い夜道を歩いていた。そんなおじいちゃんを見て、わたしは泣いてしまった。母も、妹も、父も。みんな泣いた。無事に見つかった安堵感と、これからこの生活が続くのかという不安と、変わっていくおじいちゃんへの、変わらない愛情と。いろんな感情がないまぜになって、とにかく泣いた。もうみんな、疲れていたのだ。そんなわたしたち家族に、おばあちゃんは言った。

「あんたらがちゃんと見ていればこんなことにはならなかった」と。

信じられなかった。何を言っているのか、一瞬分からなかった。自分は指示するだけで何もしないくせに、そんな自分を棚に上げて、悪いことはぜんぶわたしたちのせい。愛し合って結婚したくせに、変わっていくおじいちゃんに向き合おうともしない。・・積もり積もった感情が、その瞬間、爆発した。

「あんたの血が自分のなかに流れていると思うと吐き気がする」

気づいたらそう言っていた。血のつながった人間に対する、これ以上の侮辱はないのでないだろうか。今思い返しても、けっこうなパワーワードだ。でも、言わないと収まらなかった。自分でいうのもなんだが、温厚な性格のわたしが、はじめて人に怒鳴った瞬間だった。慣れない大声を出したせいで、しばらく動悸が収まらなかったことを、いまでも鮮明に覚えている。とにかく許せなかった。愛するおじいちゃんをないがしろにし、その世話を一手に引き受ける母を、ぞんざいに扱うおばあちゃんが。どうしても許せなかったのだ。そして、その怒りの奥には切実な願いがあった。「どうか変わってくれ、自分が大切なものをないがしろにしていることに気づいてくれ」。そんな願いが、ねじ曲がって、怒りになっていた。この言葉は、おばあちゃんへの”最後の期待”だった。

でも、おばあちゃんは変わらなかった。

おじいちゃんが亡くなっても、なにがどうなろうと、あの人は、あの人のままだった。自分が一番大切な、相変わらずの独裁者。そう悟ったとき、わたしは完全に”おばあちゃんを諦めた”。「この人はこういう人間なんだ」と。

生きていると、どうしようもなく話の通じない人間と出会うことがある。アルバイト先にくるクレーマーとか、頭の固い上司とか。自分が一番正しいと信じて疑わないタイプの人間。そういう人間に感じる”諦め”を、わたしは、”血のつながったおばあちゃん”に感じてしまった。どうしようもなく虚しくて、でも、そうするほかなかった。そうしないと、自分が壊れてしまう。おばあちゃんを諦めたわたしが、おばあちゃんを見て思うこと、それは。

「こんな人間には絶対にならない」

そう。完全なる反面教師だった。わたしがおばあちゃんに感謝していることと言えば、「こういう人間になってはいけない」という指標がはっきりしたことと、おばあちゃんという独裁者がいたことで、家族の絆が強まったことくらいだろうか。皮肉なことだが、そこに関しては感謝している。

これが、今までの”独裁者とわたしたち家族の戦いの記録”だ。

そして現在

どうやら、おばあちゃんはもう長くないらしい。

お医者さん曰く「悪いところだらけで、生きていることが奇跡。いつどうなってもおかしくない」とのことだ。体はやせ細り、立っている時間よりも、寝ている時間の方が多くなった。そして、認知症になったことで、もともとの気質である独裁者っぷりが、輪をかけてひどくなっている。母が、おばあちゃんの体を考えて作った食事をひっくり返し、「あれしろ、これしろ」とわたしに命令してくる。「認知症になると人は変わりますからね」と仕方のないことのように話す介護士さんに、思わずこう言いたくなってしまう。「この人はもともとこういう人なんです」と。でも言ったところできっと伝わらない。わたしたち家族が過ごしてきた、あの怒りと願いと諦めの日々は、かんたんに人に伝えられないほど、とっ散らかっていた。

わかっている。どうしたって人は老いる。老いて弱ったものを、健康な人間が助ける。至極当然の流れで、そうやって人間は助け合いながら生きてきた。ぜんぶ分かっているのだ。でも、どうしても、心の奥の奥では、納得できていない自分がいるのだ。独裁者と戦い、願いを踏みにじられた、あの日々が、わたしの心の奥深くに根付いている。

そんなわたしの葛藤に母は気づいていたのだろう。この、どうしようもないおばあちゃんとの日々を諦めたような、それごとぜんぶ愛するような、何とも言えない顔をして母は言った。

「こんな人でも、お父さん(わたしの父)のお母さんやからね」

そう。そうなのだ。おじいちゃんとおばあちゃんが出会って、父が生まれた。それがなければ、わたしは今ここにいないのだ。”血のつながり”。そのどうしようもなく神秘的で、こんなただの人間にはどうすることもできない”圧倒的な事実”が、わたしの前に立ちふさがっていた。

「家族」や「血のつながり」は、とかく美しく描かれがちだ。

ドラマでも、映画でも、家族は助け合って、お互いを想いあっている。おばあちゃんが余命宣告を受けてから、よく目につくようになった”葬儀屋のCM”だってそうだ。「おばあちゃん、ありがとう」って、家族みんなが”おばあちゃんとの思い出”を語りながら、泣き笑う。至極あたりまえで、そして美しい光景だ。「家族とはこういうものだ」という、見えない”あたりまえ”が世界にはある。そして、そこからはみ出した人間に、世界はあまり優しくない。

でも、人の感情はそんなにかんたんじゃない。”家族”だからって無条件に愛せるわけではないことを、わたしは知っている。好きか嫌いか、どちらかはっきりできれば、きっと楽だったのに。そのどちらからも零れ落ちた”おばあちゃんへの想い”が、わたしのなかに濁って沈殿している。これが赤の他人だったら、間違いなく大キライになっている。絶対に関わりたくないし、絶縁しているレベルだ。でも、わたしとおばあちゃんは、血がつながっている。それは、それだけのことだと済ませられないほどに、深いつながりだった。

相変わらず、おばあちゃんは独裁者のままだ。この性格はきっと、死ぬまで変わらないだろう。でもときどき、そんな”独裁者”が嘘だったみたいな、しわくちゃな、やわらかい顔をしているときがある。やせ細ったおばあちゃんの足を拭くわたしを、ぼんやりと見あげながら、思い出したようにこう言うのだ。

「ありがとう」と。

わたしは、なにも言えなかった。おばあちゃんから感謝されるなんて初めてだった。きっとただの気まぐれだろう、そう思いながら、黙々と体をふきあげて、おばあちゃんの部屋を出た。

よくわからない生ぬるい気持ちが心にあった。簡単には説明できない”おばあちゃんへの感情”。でもそのとき、ひとつだけわかったことがあった。

きっとわたしは、おばあちゃんを好きになりたかったんだ。

世界に溢れる”あたりまえの家族”のように、おばあちゃんを好きになって、愛情をこめて、この最期の時間を過ごせたら、どんなによかっただろう。でも、そうはなれなかった。そして、好きになれない反面、嫌いになりきれない自分もいた。どうがんばっても、わたしの人生のあらゆる場面にはおばあちゃんがいて。それらのほとんどが、怒って、ぶつかって、侮辱しあって、”あたりまえの家族”からは程遠いもので。でもそのなかのほんの一場面。あたたかい陽だまりみたいな瞬間が、たしかにあったことを、わたしは知っていた。

一緒に暮らし始めたころ。あの日は、ジリジリと日差しが照りつける真夏日だった。「のどがかわいた」。ぽつりとそうこぼしたわたしに、おばあちゃんがクリームソーダを作ってくれた。バニラアイスをのせた特別なやつ。何を話したかなんて、覚えていない。でもあの時の、シュワシュワ弾ける炭酸と、バニラアイスとメロンソーダが混ざった独特な甘い味を、わたしはいつまでも、忘れられないでいる。


もうすぐ、おばあちゃんはいなくなる。

そのとき、わたしは泣くのだろうか。

たぶん、”あたりまえの家族”のようなお別れにはならないだろうけど、それでもいいや。

そこにはきっと、わたしたち家族と独裁者しかしらない、怒りと願いと諦めと、そして、情けない愛があるはずだから。



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