一人が好きだけど、独りで生きていく覚悟はない
わたしは友達が少ない。
いない、とは言えないけれど、確実に少ない。
定期的に飲みにいって近況を語り合ったりする相手もいなければ、どんなことも打ち明けられる、いわゆる親友と呼ばれる相手もいない。
高校の同級生たちが作ったライングループに入ってはいるけれど、ピコピコと騒がしい通知音を聞き流すだけで発言することはほとんどない。
確実に存在してはいるけれど、姿は見えない。
電波のなかにプカプカ浮かぶ、幽霊みたいになっている。
でもべつに、苦ではなかった。
というか、むしろその方が楽だった。
人に会うと、どうしても疲れてしまう。
だから、買い物もごはんも、ほとんど一人。
プラプラと好きな店に入って、好きなご飯を食べて、好きな時間に帰って。自分でいうのもなんだが、かなり”一人上手”だと思う。
一人の時間をめいっぱい楽しみながら、ふと、何の気なしにあたりを見回す。友達、恋人、家族。自分以外のだれかと過ごす”一人ではない人たち”を見て、唐突に気づく。
「あ、自分は独りだ」と。
”一人”は楽だ。物理的な、数字としての一人。
でも、”独り”は、とてつもなくこわい。
「独りがこわい」は、たぶん、心の問題だ。
自分以外のだれかと心を通わせる。心を見せ合う。人と関ることでしか生まれない、感情、発見、成長が、たしかにある。
あなたと出会えてうれしい、楽しい。
あなたを傷つけた、傷けられた。
それでも、あなたが大切。
そういう、心が奮い立つような経験。
人生のなかで唯一無二の、人と関わることでしか味わえない大切ななにかを、自ら手放しているような気がして、こわかった。
「人は一人では生きていけない」は、嘘だと思う。だって、今の世の中、物理的には一人で生きられてしまう。自分一人が生きていけるお金さえ稼いでいれば、なんとでもなってしまう。
目に見えないところでの関わりはあるけれど、でも、日常の中で積極的に人と関わらなくても、世界はかんたんに回る。
でも「人は独りでは生きていけない」は、きっと真実なんだと思う。
自分以外のだれかがいることで、はじめて自分が自分だとわかる。自分以外のだれかに話を聞いてもらうことで、はじめて自分の本音に気づくこともある。自分以外のだれかに、「あなたは生きていていいんだよ」と言われてはじめて、自分を許すことができる。
テレビやネットに溢れる成功者が、口をそろえてこう言う。
「ぼくは人に恵まれています」
その言葉を聞くたびに思う。
この人たちはきっと、覚悟ができていたんだ。
人に恵まれる覚悟が。人と出会い、心を見せ合い、ぶつかり合う。きっといいことばかりではないだろう。そんな人と関わることで生まれる煩わしさも、しんどいことも、ぜんぶ、ぜんぶ、自分の全身全霊で受け止める。
「人と関わって生きていく」という覚悟が、できていた。
覚悟していたから成功したのか。
成功するために覚悟したのか。
どっちかはわからないし、もしかしたらそんなこと意識せずにやってのける人たちなのかもしれないけれど。
わたしは、まだこわい。
人と関り、心を見せ合って、負った傷を、さらけだした恥を。いつまでも引きずっている。
自分以外のだれかの心をみないふりして、自分の心も隠して。
これでいい。そう言い聞かせながら。
いつまでも、ぬるま湯につかっている。
「このまま独りで生きてやる!」
そう覚悟してしまえば楽になるだろうか?
「人と関わる」と覚悟した成功者のように。
「自分以外のだれかと家族をつくる」と覚悟し、結婚した同級生のように。
「独りで生きていく」、そう覚悟すれば、なにか変わるだろうか?
みんな、覚悟が決まっているように見える。
覚悟して、向かうべき目的地も見えている。
わたしは正直、なんにも見えていない。
ただゆるやかに日々を食いつぶしながら、流されるように生きている。
それじゃだめなのかな?
べつに、誰かに許可を求めなくてもいいんだろうけれど。自分が良ければ、それで。
じゃあ、自分はほんとうにそれでいいの?
そんなことを、ぐるぐると考えている。
みんなもべつに覚悟したわけじゃないのかもしれない。きっとこれを人に話せば、「難しく考えすぎだよ。もっと楽に生きなよ。」って言われるだろうな、なんて、わかってはいるんだけれど。
でも、考えずにはいられない。
みんな、どんな覚悟で生きているんだろう?
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