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みどりのある毎日に思うこと

初めましてな人もそうでない人もここにきてくれてありがとう。


あっという間に朝夕が涼しくなった。

さて9月の半ばに1年半住んでいた日暮里を引っ越しをしました。そのお祝いに大きな観葉植物を二つ貰ったんです(わーい!本当にありがとう)

植物

念願の観葉植物に歓喜をしていたのですが実はこの二つのみどり、成長スピードが全然違うのです。右のゴムの木は家に招き入れて10日間で10センチ近く背を伸ばし、若葉は4つ増えました。嬉しい反面、もしかしてこの子、大木になってしまうのでは?とひやひやしながら見守っています。一方で左のみどりは、大きな変化は見られず、元気なのか元気じゃないのか分からないくらい変わりがありません。非常に静かな子です。

この対照的なふたつを見ていると人間をみているような気持ちになりました。隣に並んでいるだけで、植物というだけで同じように比較してしまいがちですが、この二つは大きく性質が異なっています。本質をどこと捉えるか、同じ植物だけれども同質というわけではない。比較されるのは、たまたま我が家にきて、横に並べられたからにすぎません。

そもそもみため違うし、品種も原産も適している環境も違う。変化の大きい、小さいも成長が早いも遅いも、別にどちらが良いという訳でもなく、ただそうであるだけ。

なんだか相田みつをの「みんなちがってみんないい」を思い出します。つい、早いものや多いもの、自分たちに都合の良いものを基準に「よい・わるい」を判断してしまいますが、それは人間がきめている価値観でしかなく、宇宙規模で観れば「そうである」という状態があるだけです。      

人の性質もそうです。私は足がべらぼうに遅く、ずっとコンプレックスでした。でも一人で走っている分には遅いのか速いのかわかりません。小学生になるまで自分が足が遅いことを知りませんでした。足の速さに、個人差があることすら意識したことがありませんでした。
ただ、「あそこへ行きたいなぁ。そこまで走ろう。気持ちいなぁ。苦しいなぁ。」それだけです。それを人と並んで走りタイムを計るから「あぁ自分は足が遅いんだ。。」といじいじするんです。走ることは嫌いじゃなかったはずなのに、競争し始めタイムを測るようになってから、すっかり走ることが嫌いになりました。どの世界で勝負をするかは自分で決めればいい。余計な比較で劣等感を感じる必要はない。今はそんな風に思います。

毎日私たちは物事を判断するのに、どうしても他のものと比べます。それは仕方ないことなのです。比べることでしか、「遅い」のか「速い」のかは判断できないからです。人間は相対的にしか物事を捉えることができない。
比較で物事を判断する毎日・毎時間・毎分・毎秒だからこそ、時々ちょっと疲れてしまう。だから時々あるがままの自分や他人を受け入れる時間を作ってみてください。

何が言いたいかというと植物が家にある生活はなかなか最高だということです。


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