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大きな物語って消滅したの?それとも未だに健全なのか?

ふわっとした話である。

よく、ポスト・モダン系の社会認識言説はこんなことを言う。

かつてあった人間を取り巻く大きな物語は消失し、人間はたこつぼ化した、趣味の共同体へと閉じていくようになった。並列に駆動する小さい物語の中で、人は隣にいる誰かが何をやっているのか、何を言っているのか全く分からないまま生きている。

その身に宿して語れていないので、全然要点を得てないし、そもそも間違った認識かもしれないが、大枠としては上記したようなことを言っているのである。

この言説を始めて認識したとき、確たる思考力のない私は、確かにその通りだ。素晴らしい。と感激したことを覚えている。

実際、同年代の人間が、最近何に興味があって、どんなことを中心に語っていてといった、ある年齢層をひとくくりに、この人達はこうだ!といった大枠を提示しづらくなった感覚はある。

特に、テレビというマスメディアが没落していく過程の、その真っただ中で生きてきた世代である、現在30歳くらいの、テレビが共通のメディア体験として、私たちの世代という認識を作る作用を、ぎりぎり及ぼしていたであろう時代を経験した世代は、幼少期くらいの時代に限定すれば、同じメディア体験を語れることが結構あったりする。
(この一文、情報をなるべく詰め込もうとして、ものすごく理解しずらいと思うが、まあ言いたいことは、ある時から世代をくくるような、象徴的な体験なくなったよね、ということだ。)

ただもうその後、漠然と15歳辺りからはもう完全に遮断されているというか。同じ国に、同じ地域に住んでおきながら、全くの他人のような、私たちの世代を代表するような、共通の象徴的何かが欠けている感覚はやっぱりある。

なるほどインターネットを代表とする情報技術の発展と、資本主義のさらなる深化は社会にこんな影響を与えるのだなと了解できる。

前置きが長くなったがここからが本題なのである。

果たして少し前の世代には、大きな物語などあったのか。

あったとしたらそれは何か、どういった経緯で消滅していったのか。

そもそも大きな物語が消滅したのが、どの場所のどの時間から?

なんでそんなことを考え出したのか、ちょっと説明したい。

最近メディア論の初歩の初歩をかじった。そこでマクルーハンという人が、1450年ごろに生まれた印刷技術が、文化と人間意識に対してえぐい影響を及ぼしたことを分析している。

ものすごい不勉強なので、その内容が何だったのかほとんど覚えていないだが、馬鹿が馬鹿なりにこんなことを思ったのを覚えている。

情報伝達技術が発展して、たくさんの種類と量の情報をばらまけるようになったら、大きな物語を形成して維持できるような基盤は、その時点で破損していないかと。

今現在、書きながら考えている最中なのだが、自分のこの命題に対してもう自分から反論があった。

キリスト教を考えろ、マルクス主義を振り返れ、ファシズムを忘れたのか。帝国主義があんなに力を持ったことをもう忘却したのか痴呆野郎。あれこそ大きな物語そのものだ。考えるのはいいが、人類の歴史を顧みない妄想には堕落するなと。

ああそうだった、確かにそうだ。人類がある一つの物語に命をかけまくった史実がしっかりと20世紀中盤くらいまで、あるやないか。

ん?ちょっとまてよ。そう考えるなら今でも全然国家という単位は支持されてるし、宗教的基盤が今でも大衆の支持を強く受けて成立している地域も観察できる。

これってつまりまだ、俺達って大きな物語の中にいるってことなのか?

ああもう全然わからんよ。そもそも大きな物語自体の定義をしっかりしないと、ちゃんと議論が前に進んでいかない。

思い付きで突然初めてしまったが、もう1500文字近く書いてしまった。この後何かしらやることがあるので今日のところは終えておく。

昨日書いた、なぜ哲学に惹かれるのか問題に続いて、大きな物語って消滅したのかしてないのか、そもそも大きな物語って何なんだ問題が追加された。

宿題ばかり山積して嫌になるよ。誰か代わりにこたえてくれねえかな。まあでも、誰かの回答が完全に腑に落ちるってこともあまりないからなあ。

結局は自分で考える羽目になるのだなと、めんどくさい気持ちを抱えることになったとさ。

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