見出し画像

第六十二景

何かが起きる訳でもない、自分の人生の中に楽しみを持とうとして始めたことの一つに飲み歩きというものがある。住んでいるところが最寄りの駅から車で10分ほどのところにあり、タクシーも11時を過ぎれば動いていないという田舎ならではの事情で、今まではハードルが高かった。

なぜそれを思いついたのかと言われると、よく分からない。酒の力を借りて、嫌な事を忘れようと思ったのかもしれない。そんな訳で新潟市の古町地域に飲みに行くことになった。

学生時代は関東に住んでいたために、新潟市のことについてはよく知らない。学生時代に新潟市で過ごしたことのある友人の話を聞くと古町という町は、駅の近くに比べディープな雰囲気をまとっているとのことだった。要するにちょっと恐くてエッチなのだ。

恥ずかしい話なのだが、僕は今まで一度も性的なサービスをしてもらうお店に行ったことがない。何をどうしてもらうのかも知らない。しかし少しも興味がないといえば嘘になる。

飲み歩きをするときは決まって、昼過ぎからスタートする。今回も同様に、朝自宅を出た。途中どこにも寄らずノンストップで宿提携の駐車場に車を停めた。

運転しながら、気づいていたのだが、下腹部に違和感があった。俗にいう尿意というやつだ。トイレがないかと探しながら、宿の入口も探す。トイレはなく、宿のフロントにあることに一縷の望みを託す。

暖かい空気が充満したフロントには、マスクをつけた妙齢の女性がこちらを注視していた。スタッフ以外立ち入り禁止と書いてある看板の向こうに、トイレのマークが見えた。

融通を利かせてもらうのも悪いと思い、荷物だけ預かってもらい、他のトイレを探そうと思った。それほど切羽詰まっていると思われたくなかった。

またそれを覆してもらうのに、相手の労力を割かせたくないという気持ちもある。早く他のトイレを探したいという気持ちとは裏腹に、Gotoキャンペーンのクーポンを発行してくれるとのことで、思ったより時間がかかっていた。

尿道から、何かが出ないように力を入れる。そんなことをしていると、徐々に違うほうの便意も伴ってきた。更におけつからなにも出ないように力を入れる。尿意を我慢しすぎると別のものが出てきそうになるのはよくあることだった。

時間にすれば2分なのだが、永遠のように感じられた。僕は我慢できるのかどうか、自分で自分に問いかけ続けていた。いつまでも発行されないクーポンを待ちながら、ついには限界を迎えた。

「ちょっとトイレを借りてもいいですか?」という言葉が僕の口から発せられた。よく考えると、この日初めて発した言葉だった。笑顔で「いいですよ」と女性が答えた。マスクをしていたのだから、笑顔で答えたかどうかは、実のところは分からないが女神だった。

何かが漏れ出ることもなく、出てきたのはトイレを使う権利を獲得するための声でよかったと、今でも思っている。

ズボンを上げ、スライド式のトイレのドアを横に滑らせ、クーポンを受け取って外に出た。

青より雲の白の方が多い、それでも青が少しばかり見える青空が上空に広がっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?