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第五十二景 銃が落ちている話

先日、中村文則さんの「銃」という本を読み終わった。あらすじとして、ある男が偶然に銃を拾い、その絶大な力を手に入れたことによって、次第におかしくなっていくというものだった。

まず、銃をひょんなことから拾うということ自体が、稀なことだとは思う。しかし銃を手に入れた、力を手に入れたことから、気持ちが大きくなる感覚はよく分かる気がする。強力な力にすがることによって、安心感を得るような想像もする。

力がないことにより流れの中に身を任せる、誰かの言いなりになる、誰かの期待に沿うような人物を演じる、ことをしなくてはいけない場面が少なからずあるだろう。この本の主人公はそんな人間だった。

銃を手に入れた途端に気が大きくなり、自分がやろうと思えば、人を傷つけることもできるし、脅すこともできるようになってしまったらどうだろうか?

今までの自分ではないと、人を見返してやりたくなるのかもしれない。発言が横柄になるかもしれないし、そうならないかもしれない。気が大きくなるか、今までのようにいることができるかどうかは、結局はその人次第のところがある。

SNSやインターネットが発達したことによって、自分とは別世界の人の言葉や行動を容易に知ることが出来るようになった。その反面、その世界で起きている出来事や流れが、まるで自分の近くにあるように錯覚することも多くなった。

世界とは離れているにも関わらず、スマートフォンで検索すれば、なんでもすぐに出てくる。もの凄く身近なものとして感じることが出来る。そして、その中でも世間体みたいなものがあり、それに逆らえば、その世間にこぞって叩かれる。

本当はそんなことなど気にせずに、自分の世界を生きれば楽なはずなのに、中途半端に別世界のことを知ってしまうと、その流れに身を置かなければ、疎外感を感じてしまうのかもしれない。仲間になるには同じ思想や考え方を持ったふりをするのが手っ取り早い。

自分には関係ないことでも、世間的に問題のある行動をした人がいて、それを問題だとみなした人が多ければ、それが普通になっているし、それに追随しないとおかしいみたいな風潮も漂っているようにも感じる。

そのことをおかしいと思うかどうかは、その人次第にはなる。大体は世間体に惑わされて、自分の意志に反して、その作り上げられた理想の人物像を演じなければいけない。

そんな本来の自分を出すのに勇気が必要な世界で、絶大な力を手に入れたとしたら?自分ならどう行動するだろう?

ある日、死体に遭遇して、その近くに銃が落ちていた時のことを想像してみる。第一発見者だ。

真っ先に驚くだろう。そして本当に人間なのか、本当に死んでいるか、を確認するだろう。それから近くに銃が落ちていることに気づく。

銃を拾おうとはせずに、まず救急車を呼ぶだろう。そして警察に通報する。疑いをかけられる状況にはなるが、そうした方があとあと面倒ではない気がする。

僕の場合はそこで、物語が終了する。絶大な力を手に入らないし、要らない。

権力や力は恐い。権力を持った人の発言は間違っていても、正しいと錯覚してしまう。そう錯覚するのは恐いことだが、同じような武器がなくても、間違っていることは間違っていると思う人間でいたい。

最初から、自分を押し込めて、偽りを演じることがなければ、銃を発砲する必要はない。それには元から、強い人間であり、強い意志を持っている必要がある。確固とした自分の意志が一番大切だ。

自分はそんなに強い人間であるのかどうかを自問自答しているが、今はよく分からない。

とりあえず、銃が落ちていても拾わないほうがいい事だけは、よく分かった。そして日々のストレスはその場で発散する。弾丸を込めないことも重要だ。

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