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第七十二景 肉子ちゃんの話

アプリでやり取りをしている人から教えてもらった「漁港の肉子ちゃん」という西加奈子さんが書いた本を読み終えた。人が面白いと教えてくれた本を読むのは結構好きだ。自分があまり読まない系統の本であればあるほど新鮮で、どんなところが面白いと思ったのか考えるのも楽しい。

「漁港の肉子ちゃん」は肉子ちゃんとその娘のキクりんを中心に話が進んでいく。

肉子ちゃんはとても太っていて不細工だ。太っているから肉子だ。でもそんな事を気にしている風もなく、とてつもなく明るくて豪快。本能のままに生きている。美味しいものは気が済むまで食べる。細かい事は気にしない。うるさくて暑苦しい。語尾に「っ!」がよく付く。漢字をバラバラにして表現する。「十の間に日があってその隣に月と書いて朝と読むのだからっ!!!」という風に。そして男に騙されやすいのだ。

キクりんは小学5年生、どこか大人びた雰囲気がある。肉子ちゃんとのやり取りを見ていると、どっちが大人なのか分からなくなる。友達の不穏な空気を察知して、友達の期待に沿うような行動をしたり、大人の顔を伺って、子供らしくない振舞いをする。かと思うと、遺影が話かけてきたり、飛んでいる鳥の声が聞こえてきたり、他の人には見えないものが見えたりする。大人にあこがれを抱いている面もあるがやっぱり子供なのだ。大人が持つような自己意識と子供の本能の狭間で心が揺れ動いている。そんな女の子だ。

題にある通り、肉子ちゃんたちは、自分を騙した男を追って北国の漁港に住んでいる。モデルは東北の漁港らしいが、本の中に出てくる言葉「らすけ」や「なじょ」は新潟っぽい。妙に親近感が湧いた。

僕は肉子ちゃんの姿をちょっと嫌だなと思う反面、そんな風に生きることが出来たらどんなにいいだろうとも思った。悲しい時は周りのことを気にせずに泣いて、腹が立った時は声を荒げて怒って、眠くなった時は豪快にいびきを掻いて眠る。

ありのままの感情をありのままに表現する。いつからそんな事が出来なくなってしまったのだろう?おそらくキクりんが持ったのと同じような自己意識が芽生えてしまったからだろう。自分のした振舞いがどう相手に見られているか?これをしたらあの人はどういう風に思うか?嫌われてしまうのではないか?

自分でも知らないうちに、自分の周りに薄い膜、酷い時には厚い皮が出来ていて、自分の感情とは別の表情を作っていたりする。相手の期待に応えようとする。でもそれは、自分を守るために必要な事であったりもする。自分の本能のままに生きることはとても楽だけど、そのツケが怖いし、恥も掻きたくない。結局、誰かに見られる事を前提として、生きていかざるを得ない。

おそらく肉子ちゃんやキクりんは僕を含めてみんなの心の中にもいる。肉子ちゃんもキクりんも僕も生きている。なにがありのままなんて分からない。時間は否が応でも過ぎていくし、似たようなことはあっても、その時、その場の感情を二度と味わうことは出来ない。

一瞬たりとも同じ自分はいない。そして起こることは事実として起こる。だからこそ、その時の感情を強く噛みしめ、ちゃんと自分のものにしたい。

どんなに悲しいことがあっても、不本意なことがあっても、死にたいと思っても、心臓が止まらない限り、生きていかなきゃいけないのだからっ!!!

なんて言ってみる。

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