見出し画像

第八十九景

どこへだって行ける気がする。いやどこへも行きたくない。なにもしたくない。その振り幅が大きい。爆発的な力を見せつけて、22時に寝て、翌1時半に起きて、山に行くこともあるし、寒くて雪が降る日は一日中こたつでうだうだしていることもある。面倒くさいことは極力したくないし、やるとしても出来るだけ効率的に動きたい。本当のところ、朝早く起きるのは、とても力がいることで、いつも心が折れそうになる。でも起きてしまえばこっちのもので、るんるんでハンドルを握る。

最近思うのは、女の子と山には行きづらいということ。無論、行く相手がいる訳でない。よほど心を許した人でないと無理だと思う。まずトイレ問題。山の山頂には、トイレがいつもあるわけではない。自分ですら時々漏らしそうになるのに、女の子に気を遣いながら登るのは、修行になるだろう。山の友達も欲しいけど、今のところはソロ登山の方が気が楽だ。好きなペース、好きな山に登れる。

まあ一緒に行って、ゆったりゆったり歩くのもいいかもしれない。お湯を沸かして、コーヒーを飲むことだって久しくやっていない。しかし自分のためだけに、お湯を沸かすのもどこか空虚だ。でも誰かと行くと、やっぱり気を遣って少しイライラしてしまうかもしれない。山にリフレッシュに行っているのに、元も子も無くなってしまう。

さて、今年はどこの山へ行こうか。福島や山形などの東北の山にも行きたいし、石川や富山などの北陸の山にも行ってみたい。まとまった休みを取って、観光しながらでもいい。きれいなものが見れればなんでもいい。意外と適当で、行く前はワクワクしているのに、着いたら宿にこもるなんてこともよくある。ひとりでいると、自分の気分で動ける。それがまた気に入っている。でもやっぱ誰かと手を繋いで、ふふふって笑いながらでもいい。本当になんでもいい。

僕は寂しいのだろうか。なんとかひとりで楽しい気持ちを維持しているけれど、ふとした瞬間に虚無が襲ってくる。まあそれが生きているということなのかな。ひとりになるまでの約十年間、生きるということなんて考えたことはなかった。死ぬことも考えなかった。生きていることはある意味、普通でそしてその喜びを当たり前のように享受してきた。

よく言われることだけど、大切なものは無くなって初めて気付く。そして、気付いた時にはもう手遅れなのだ。なにもかも。そんな大事なことなのに、失わないと気付かないし、気付けない。

でも今なら分かるよ。自分が本質的には全然優しくなかったことも、良い顔してたのも、全部自分のためだったってことが。今なら分かるよ。それに気付けて少し優しくなったってことを。今なら分かるよ。そう信じたいよ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?