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第四十八景 隠し味の話

僕は車を走らせた。空は厚い雲に覆われ、ワイパーの速度が降る雪に間に合わない。群馬に行くには三国峠を抜けるか、関越トンネルを抜けるか迷ったが峠道よりは高速の方が良いと思い、近くのインターから高速に乗った。

冬の高速は怖い。恐れ知らずの県外ナンバーがガンガン飛ばしている。雪道の恐ろしさを知っているなら、まずそんな事はしないだろう。命知らずにも程がある。

薄っすらと雪の積もる道路をスリップするギリギリの速度で走っていると、見たことのあるステッカーを貼った車が追い越して行く。

長い関越トンネルを抜ける。群馬側は快晴だ。谷川岳が雪を食い止めてくれる。車にはね上げられた塩カルでフロントガラスが曇る。ウォッシャー液でも綺麗にならず舌打ちをした。

追い越し追い越されていると、目的地の前橋市の看板が見えてくる。前橋ICで高速を降り、前橋駅近くのホテルに向かう。駐車場が分からずうろうろしたが、フロントに確認しなんとか停めた。チェックインの時間まで数時間はあったが、停めてもいいとのことだった。

ここからスタジアムまで約3キロ。周りの駐車場は開幕戦で混雑するだろうから、ホテルに停めて歩くことにした。バスも出ていたが、なにかと歩きたがりになってしまった。

それにしても風が強い。髪がめちゃくちゃになるほどの風だ。砂まで飛んできて目に入る。風は冷たいが、歩いているとそれほど気にならなかった。歩いていると次第に催してきた。

催すときほど入れそうなトイレがない。コンビニよりは、ドラッグストアのトイレの方が好きだ。便意と戦いながらなんとかコンビニを見つける。満身創痍になりつつ、漏らしたことがあるのが家だけというのが不思議だ。

事なきを得、再び歩き出す。乱れた髪を整えながら、歩いていると楽しそうな音楽が聞こえてきた。だんだんとワクワクしてきた。スタジアムに着く前に、ご飯を食べようと適当なラーメン屋に入った。

店内は混雑していた。みんな対戦相手のサポーターだろうと思ったが、味方もいたのかもしれない。あっさりしたラーメンは普通で特に記憶には残っていない。店を出ると更にワクワクしてきた。

スタジアムに着いた。オレンジのユニフォームと青と白のユニフォームを着た一般人たちが入り乱れる。僕は普段着だ。入場の列を探していると長蛇の列が見つかった。入口からスタジアムの外周をぐるっと回って反対側まで続いているようだった。

最後尾に行くのは面倒だったので、待っていれば短くなるだろうと、入口付近で座っていた。数十分経つが全然短くならない。しびれを切らし、ちょっとだけ短くなった列に並んだ。待たずに問答無用で並んだほうが良いと学んだ。

味方のサポーターがいる席は、びっしりと埋まっていたので、相手側の席に座った。割と余裕があった。どこで見ても選手が小さく見えるので、テレビで見た方が見やすいなあと思っていたら試合が始まった。

点が入ると、周りの人たちは両手を上げ、相手側のファンがいたのにも関わらず、喜びを露わにした。こういうもんなのかと思い、二点目が入ったら、僕も同じようにガッツポーズをしてみた。爽快だった。

結局圧勝し、熱が冷めないままスタジアムを後にした。祝勝会を挙げようと、目をつけておいたお肉がおいしいお店へと3キロの道のりを歩き出す。

帰りは行きと比べ、早く感じた。途中、味方チームのファンが乗った自転車が通り過ぎ、漠然とその手段もあったかと思ったがそのまま歩き続けた。

開店時間と同時に店に入った。カウンターに案内され、おしぼりを渡される。酒の肴になりそうな調理シーンが見えそうだった。看板メニューのビーフとポークのロースト各100gとビールを頼んだ。

ぺろりと食べられるかと思いきや、付け合わせのポテトがきつい。それにポークが歯ごたえがあって、歯が折れそうだった。ビールを何杯か飲みつつ、ちょびちょび食べて完食する。

まだ余裕があったから、だし巻き卵を頼んだ。好きで自分も作るので、お店の人がどう作るのかを研究するためによく頼む。

大体のお店人はハーフサイズもありますよと気を遣ってくれるが、いつも「フルで!!!」と威勢よく言うので苦笑される。

にやにやしながら、眺めているとやっと作り始めた。「ほほう、このお店は卵を4個使うのか」と心の中で思いにやにやする。ボウルに卵を落としかき混ぜ始める。

「しゃっしゃっ!しゃっしゃっ!ぺろっ!しゃっしゃっ!しゃっしゃっ!ぺろっ!」

ぺろっ?おかしい。僕の知っている作り方と違う。卵をかき混ぜる途中に箸を舐めている。それを何度か繰り返す。そこからの後の工程は頭に入ってこなかった。

おっさんが舐めた箸を突っ込んだ、だし巻き卵に見えるなにかが目の前に差出される。だし巻きといいながらバターの香りがふんわり香ってくる。これはこれで美味そうだと思うが、おっさんが舐めた箸で作られたものだ。

まだ油断は出来ない。箸を手に持ち、だし巻き卵に見えるなにかを箸で一口サイズに切る。とろっとした感じが伝わってくる。箸で挟むと、ふるふる震えて、早く口に運ばないとするりと落ちてしまいそうだ。

僕は覚悟する。恐る恐る口に運ぶ。目を瞑る。そうするとおっさんの髭面が浮かんでくる。舌の上に乗っける。一瞬吐き気が込み上げてきたが、紛れもなくだし巻き卵だった。

今度作る時は、ぺろっと舐めてみようと思った。隠し味になるのかもしれない。

たぶんそんなことはないのだろう。

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