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新しい家族

20年ともに暮らした猫が死んで、妻は悲しい思いをしていたようだ。別に泣き暮らしていたわけではないが、会話をしていていきなりヒーッと泣き声になったりして、私もたいへん心配した。元気づけようと、日帰りドライヴに誘ったりして、たいして行きたくもないというそぶりの妻を車に乗せて、往復4時間くらいで湖を見に行ったりした。コロナ禍もおさまり、観光地は人が戻ってきているようだが、にぎやかにしゃべりかわす外国人の旅行客の団体がいない。不思議な静けさを感じる湖の旅だった。展望台で雨に降られ、山あいの湖だったので、「山は天気が変わりやすいね」などと話した。家に帰ると、居間のテレビ横に並べたテーブル上の小さな骨壷(猫をちゃんと火葬した)が、LEDのろうそくに照らされていた。妻は水をとりかえてやって猫の写真をなでている。妻を元気づけることが私にはできないようだ。
ある夜、部屋のベッドで寝ていると、妻が枕元に立って、「気になる子がいるんだけど」と言う。なんのことかと思って、渡されたタブレットを見ると、画面は「ペットレスキュー 里親探しています」となっていて、スクロールすると、「名前 こぶ」という猫の子の画像があった。死んだ猫と同じ全身黒い毛の猫だった。黒い子猫がキャットタワーの横で、りんとすましてお座りしていたり、兄弟であろうこれまた黒い子猫と並んで、こっちを見ているどっちがこぶかわからない画像がアップされている。このペットレスキューのホームページをしっかり見ると、市町村の委託を受けて、保護された猫と犬のお世話をし、譲渡をしている団体のようで、他にもかわいい子猫と子犬の画像がたくさん載っていた。妻は神妙な顔をしていて、「死んだばかりでもう次の猫をもらうのかい」という言葉を恐れているんだなとわかったので、その言葉は言わなかった。「今からもらったら、猫が20年までは生きないにしても、私とか70歳越していて、猫より先に死ぬかもしれない」と言うと、妻は「だから歳とってから猫をもらいたくても無理になるんだから、今が最後のチャンスなのよ」と言う。確かにそのとおりだ。そして妻にうながされるまま、一緒に申し込みフォームに入力をすませた。
入力をすませて次の日、すぐペットレスキューから返信のメールが来て、譲渡会を見に来ませんかとお誘いがあり、見に行った。それからすぐ「譲渡することに決定しました」とメールがあり、申し込みをしてそんなに経たない仕事が休みの日に、「こぶ」が我が家にやってきた。来ることが決まって、猫のトイレを新調して、猫じゃらしのおもちゃや爪とぎをいくつか買い、子猫用の餌も用意していた。餌と水飲みの食器は、前の猫の立派な食器があるので、そのまま使うことにしていた。ペットレスキューの女性2人が来て、今後きちんと育てますという趣旨の誓約書を兼ねた譲渡書に署名押印し、1回目の予防接種が終わっているので、2回目をすぐ受けるようにとか、保護した時が推定1ヶ月くらいだったので、逆算して7月の生まれで、12月くらいに去勢してくださいというような引き継ぎを受けた。「名前はどうされますか」と言うので、「こぶという名前はかわいいのでそのままにします」と返事する。「黒猫だから昆布色のこぶちゃん」らしい。そんなわけで30分くらい経って、やっとペットキャリーからこぶが解放された。妻が抱き寄せて、「こぶちゃん、はじめまして」と言う。片手で持てるほどの小さくてきゃしゃな子猫。こぶは不安そうに「みゅー」と鳴いた。それから妻は、毎晩夕食の席で、その日の子猫の様子やおもしろかったことをにぎやかに語った。ペットレスキューから言われていた2回目の予防接種を終わらせ、去勢の予約もすませた。その動物病院がかかりつけ医になりそうだ。妻は夜も前の猫の時のように、こぶと眠って、すっかり元気を取り戻した。
前の猫の骨壷のテーブルに追弔文を立てかけている。猫を火葬してくれたペットの葬儀屋さんから渡されたものだ。近郊のお坊さんが書いたありがたい文だとのこと。けっこう長い文で、少しだけ紹介すると、

鹿は野にかえり
鳥は空にかえる
野生の鳥獣すら
よく自然の懐(ふところ)にかえることを知るに
家畜の生を想うとき
誰か哀憐と感謝の念を懐(いだ)かざらん

といった文言の追弔文だ。黙読して、前の猫に「新しい家族を迎えたよ。お母さんを守ってあげてね」と祈る。

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