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能力バトル漫画を作ろう1

「厨二病」

と聞いた時、あなたは何を想像するだろうか?
簡単で意味が強い英語の技名であるとか、妙に回りくどくて気取った台詞回しであるとか、変に格好つけたポーズであろうか。

「中学生2年生くらいが喜ぶ要素、そしてその影響下から中学生2年生でなくとも抜けれない状態」を意味するわけだが、オレが思うに中学生2年生の感覚というのは少年層、青年層においてちょうど中間値となるので、決して軽視するものではないと思う。

この厨二的感覚を嘲笑っているとビジネスや政治など現実的でいわゆる真面目な話、あるいはスポーツ、恋愛といった現実的話題、エロ、ギャンブル、ドラッグに暴力といった俗世間的な価値観に支配されてしまうと思う。

ユヴァル・ノア・ハラリの「サピエンス全史」には「認知革命」が人類を進化させたと書かれている。
虚像を信じる事で集団意識を芽生えさせてきたのが人類。
それは太古には、そして現在も「神」であり、現代においては「憲法」「法律」などである。
神がフィクションなのは理解しやすいと思うが、法がフィクションとはちょっと分かりづらいかもしれない。だが、法そのもの明確にフィクション、もっと言うと「設定」である。

例えば極楽民国と言う国があったとする。
この極楽民国ではニンジンには中毒性があるとして、ニンジンの取引を厳しく禁止する法律があったとしよう。
極楽民国の民からすればニンジンが危険で関わってはならない存在である事が民主的に取り締まっているのは当然のことであるが、他の諸外国からすればアホが妙なことを信じきって美味しいニンジンが食べれなくて可哀想だと思うだろう。

もしくは小川帝国という国があったとしよう。ここで皇帝である小川が国民全員に朝はアヘンを吸って自分を敬う習慣を義務づけたとすれば、国民は義務なので仕方なくやるだろう。
だが、諸外国は大丈夫かと心配するだろう。

なので、フィクションを楽しむのはとても高度であり、そのフィクションを作るのはさらに高度である事がわかる。

そう考えると、少年達を熱くさせつつ「いや、そんなわけねえだろ」と冷めさせない数々の漫画、とりわけお互いの能力を駆使して戦う「能力バトル漫画」はまさに少年漫画界の頂点に立つに相応しいジャンルだ。
ドラゴンボール、幽☆遊☆白書、ジョジョの奇妙な冒険、ワンピース、ハンターハンター、超人気漫画の殆どが能力バトル漫画である。

特に「ジョジョの奇妙な冒険」に代表される、能力がビジュアル化、キャラクター化しているタイプのバトル漫画は面白い。
オレは能力バトル漫画の起源は「バビル2世」にあると考えているのだが、バビル2世自体は能力が具現化していないが、お供に3つのしもべがいて「引き連れてる」感が少年心を熱くさせている。

そんなことを考えていると、オレは禁断の症状に駆られた。

能力バトル漫画が作りてえ…である。

これは相当に危険な発想である。
オレが小学生であればよくある事であるが、バリバリの大人なので、下手な能力バトル漫画などを書けば周りが冷たい目で見られる事必至である。

だが、これも不思議な話で、もしオレが子育てを「こどもの子育て〜少年心のまま子供を育てて〜」などのタイトルで漫画にしてTwitterに書けば共感を得たり、ふむふむと読まれたりするだろう。

だがこれがもし「究極宇宙伝・ヤヒロのポコペン」という、宇宙“究極”を目指して主人公のヤヒロが自身の能力である具現化したバトルポコペンで闘う話だったら恐らくオレのフォロワーはゼロになるだろう。(どうでもいいが、宇宙最強ではなく宇宙“究極”であるあたりに厨二要素を入れた。)

大人になればなるほど、人は新たな設定を受け入れるのがダルくなり、現実ばかりを追い求めるようになる。
すると日常のあるあるや、生活する上で起こるトラブルなどへの共感は出来ても、ポコペンで戦うヤヒロが究極になるまでワクワクしたり、ヤヒロの新必殺技「ポコペン・ド・ザ・サンバ」(一秒間に300発ものポコペンを相手にサンバのリズムで叩き込む事ができる。それまでは一秒に90発までしかポコペンを叩き込めなかったが修行の末にヤヒロ自身とポコペンがパワーアップした)に度肝を抜かれて教室や職場で仲間にポコペン・ド・ザ・サンバを繰り出したりしなくなる。誰だって、その昔はかめはめ波を繰り出していたというのに。

なぜ、「こどもの子育て」はTwitterで受け入れられるのに、「ヤヒロのポコペン」は受け入れられないのか。それは人の認知の限界によるものである。オレはそれを「正統性」と読んでいる。

それで考えると、「こどもの子育て」にはかなりの正統性がある。
もし絵が下手でも「Twitterで個人が非営利で発信しているから」という正統性があるし、故に内容的にも非営利だから単純に子育てで起こる大変さや楽しさをフォロワーと共感したいんだ、という正統性がある。
次にニーズもある。現実に起きている事であるから受け入れやすいし、前置きも必要ない。
「極楽が子育てをしているんだ」と、2コマも読めば理解出来るだろう。
「こどもの子育て」という、ほどほどにショッキングなタイトルも興味を引く上に、嫌味もない。

一方で「ヤヒロのポコペン」には以上に上げたような正統性が全く無い。
突然オレがバトル漫画を書く意味がわからないし、ヤヒロだのバトルポコペンだの突拍子もない設定を覚えて信じ込むのもバカバカしくなる。

では、正統性があるバトル漫画とは何かといえば以下が挙げられる。

・ちゃんと少年誌に掲載されている。

・絵が秀逸である。

・ストーリーに現実味があって説得力がある。それでいて奇抜で夢がある。

などが思いつくが、一番大事なのは「少年誌に掲載されている」という点だ。
それがあるだけで、読む方はじゃあ安心だ、と読み始めることが出来る。これを正統性と言わずに何というのか。
実際、Twitterで発表してもバカにされるだけであろう「ヤヒロのポコペン」だが、少年ジャンプで突然連載が始まったらみんなは驚くし、ちゃんと読むだろう。
そしてアンケートが良ければTikTokでポコペン・ド・ザ・サンバを真似るのが流行り、小学生はみんなバトルポコペンのオモチャを買うだろうし、新生児の名前ランキングは男女共に「ヤヒロ」が一位になるだろう。

これだけのポテンシャルを持ちながら「少年ジャンプじゃない」という理由だけでオレは「ヤヒロのポコペン」の執筆を断念する事にした。

「正統性」

どうすれば手に入るのか。
ジョジョの奇妙な冒険など、普通に考えたらどーにも突拍子もないはずなのになんであんなに正統性ありまくるのか。ジャンプだからなのか。

そう考えていたオレはある作品の事を思い出した。
実弟、こうじが小学一年生の頃に執筆していた能力バトル漫画「19」である。

こうじは嬉しそうに楽しく描いた漫画を俺に見せっこしていたのだが、オレは鬼編集長さながらにダメ出し、設定の不行、あるいは怒りのあまりに燃やして全部書き直しさせていて、こうじは大人になった今もその事を根に持ち、恨んでいる。

しかし、今になって思えば、オレは真剣にこうじの漫画と向き合っていたからこそ、ダメ出しをしまくっていたのではなかろうか。
小学生だかと甘やかせて「うんうん、おもしろいね」といいお兄ちゃんにもなれたはずだし、「こんな事やってないで勉強しろ」と突っぱねることもできた。
こうじの「19」には何かしらのバトル漫画としての正統性があったんじゃないだろうか。

19のあらすじはこうだ。
ちなみに3部構成になっている。

近未来の日本。主人公の「19」という少年は悪事を企む謎の組織と敵対する。
組織のボスは「仮面の男」であり、不思議な力を持っている。この男との戦いの最中、主人公「19」も能力に目覚める。この能力の事を「19」と言う。
「19」の能力は人によって様々であり、「仮面の男」は雷や炎を操る事ができ、主人公の「19」は手が伸びる能力がある。
第二部では髪が伸びる「19」の持ち主である「ケイタ」が主人公に変わり、前主人公の「19」はサポート役に周る。
第3部では再び「19」が主人公となり、「仮面の男」との最終決戦が描かれる。

なるほど、こうしてあらすじに興してみると結構ちゃんとしているし、面白そうだ。
だが、この時点で幾つか気になる点がある。
まず、主人公の名前が「19」で、能力の名前も「19」なのが紛らわしい上にわけがわからない。
なぜ「19」というネーミングなったのかの説明も作中になく、意図がわからない。
次に主人公達の髪が伸びる、手が伸びる、という能力もなんとも地味だ。
こうじの中で「主人公は伸びる能力」という意識があったのかもしれないが、例えばワンピースの「ゴムゴムの実」の様な捻りが欲しかったところである。
それにワンピースはダイナミックな作画で腕いっぱいにルフィが「ゴムゴムのー」と叫び、溜め、翌ページではピストルっと、敵の顔面に埋まり込むほどに拳が吹っ飛びワクワクするが、小学一年生の稚拙な作画ではただ手がにゅーと伸びているだけで迫力が全く無い。

が、こういったツッコミも、作品の内容があらかた理解出来るからこそのものであるとオレは気づいた。
近未来の設定は分かりやすいし、対立構造や能力も最小限の描写にされていて分かりやすい。
また、影響された作品が「ドラゴンボール」と「ジョジョの奇妙な冒険」だけなので作者のバックボーンがわかりやすく、内容も「ああ、要するにジョジョの仗助と承太郎の関係ってわけね」と入りやすい。これは結構デカい。例えば髭ダンのファンの子達がめちゃくちゃ演奏が上手くなった結果とんでもなくプログレみたいな演奏を始めたとしても、見てる方は「こいつらは何がやりたいのだろう」と思うかもしれない。
だが、「僕らはキングクリムゾンが大好きです。」と言う人達がプログレを演奏していたら「ああ、プログレだな」と人は思い、何の疑問も持たないだろう。
これこそが「認知の限界」、正統性というやつなのだ。

また、オレはこうじの漫画にツッコミを入れながらもそれが結構楽しい事に気づいていた。
作中の敵に当時の首相であった自民党森喜朗が「もりそうじ」というキャラクターとして出てくるのだが、このキャラクターの妙な言動はたまらなく面白かった。
小学一年生が知る限界ギリギリの知識で描かれる森喜朗は本当に上っ面だけなぞっていて嘘くさく、だが、それがケレン味たっぷりで魅力的だった。
そこで気づいたのが、いわゆる王道少年漫画も大半がツッコミ所満載で、小学高学年にもなると「いやさ、ドラゴンボールのあれってありえないよね」とか「時が止まってるのに磁石は動くってどう言うことよ」なんて言ってたこと。
そして、思えば少年マンガを描いているのはまるっきり若くて世間知らずの青年達だった、という事だ。


わかい青年達が知りうる知識の中で書いていた。
それは間違いもあるだろう。しかし、それは彼彼女らの目に映っていた、その場の真実だったはずだ。

「真実から出た真の精神は決して滅びる事はない」
というやつなのだ。

初期のパンクロックがヘタクソでも輝いていた様に、そのノイズも含めて魅力的なのが少年漫画なのだろう。

こうじの「19」にあった正統性、それはズバリ「読み手に作品への認知がある(オレがこうじのバックボーンを知っている)」「内容が王道である(わかりやすい)」「真実から出た真の精神がある」の3点だと思う。

それを踏まえるとやはりオレの「ヤヒロのポコペン」には正統性が何も無い。

そんな中、オレはついに自分の作品に正統性を加えるある方法を思いついたのであった。
(続く)

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