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「流浪の騎士団により築かれた壮麗な要塞都市」世界遺産の語り部Cafe #12

本日は、

ギリシャ🇬🇷の世界遺産【ロドスの中世都市】とマルタ🇲🇹の世界遺産【バレッタの旧市街】についてお話していきます。


前回、前々回に続き、【十字軍】関連の世界遺産についてお話します。

十字軍の拠点となった【エルサレム王国の首都アッコ】が陥落して以降、第9回十字軍を最後に、再び組織されることはありませんでした。

アッコの陥落
 



中東を追われた十字軍の足取り



しかし、中東を追われた十字軍の残党は、その後もイスラム勢力との小競り合いが続いていました。

十字軍の主力隊であった「聖ヨハネ騎士団」 は、イスラム勢力に対抗すべくギリシャの「ロドス島」に拠点を構えました。

フィレリモスの丘
ロドス島

エーゲ海に位置するロドス島は、古代ギリシャから栄えた交通の要となった島です。

その玄関口であるマンドラキ港には、古代世界の七不思議にも数えられる「ヘリオスの巨像」がそびえ立っていたと言われています。

この島を拠点としていた時代のヨハネ騎士団を指して、別名「ロドス騎士団」と呼ばれることもあります。

マンドラキ港
ヘリオスの巨像の想像図



エーゲ海に浮かぶヨハネ騎士団の中世都市



ここに要塞都市を築いたヨハネ騎士団は、多国籍から成る集団であったことで「母国語によって7つの軍団」に分かれていました。

騎士団長の館

そのため、東西に走る「騎士団通り」と呼ばれる通りには、イタリア館やフランス館、プロヴァンス館など、ゴシック様式の館が騎士団通りの両側に並んでいます。

また、ヨハネ騎士団は「ホスピタル騎士団」とも呼ばれ、初期は「病院経営によるキリスト教巡礼者保護」を目的とした形態でした。

エーゲ海に浮かぶ島でありながら、中世時代の古い街並みを多く残している点が特徴的です。

騎士団通り


騎士団の撤退と皇帝カールの憂鬱


堅牢な要塞を築き、幾度となく外敵を退けてきたヨハネ騎士団ですが、スレイマン大帝率いるオスマン帝国の侵攻による「ロドス島包囲戦」の末、ついにはロドス島を追われることになります。

“大帝”スレイマン1世

ロドス島を撤退したヨハネ騎士団は、新たな本拠地を求めて浪人状態となっていました。

一方、着々と国力をつけてきたオスマン帝国は「第一次ウィーン包囲」には失敗したものの、勢いに乗るオスマン帝国は、ヨーロッパ諸国にとって脅威の存在となりつつありました。

オスマン帝国に対抗する用心棒を必要としていた神聖ローマ皇帝「カール5世」は、包囲から翌年にあたる1530年、“毎年一羽の鷹”を納めるという条件付きでヨハネ騎士団にマルタ島の領地を与えます。

カール5世/カルロス1世

「地中海の十字路」と呼ばれたマルタを新たな拠点を得たヨハネ騎士団は、その後「マルタ騎士団」の名で定着していきます。

“地中海の十字路”マルタ


「マルタ包囲戦 “Great Siege of Malta”」


ヨーロッパの守護という役回りを兼ねたマルタ騎士団は、イスラム勢力相手にガレー船で海戦を重ねながら、着実にマルタ島を城塞化していきました。

かたや、「バルバロス・ハイレッディン」擁するオスマン帝国艦隊は、「プレヴェザの海戦」でキリスト教連合軍に勝利したことで、地中海の覇権を手にします。

バルバロス・ハイレッディン
プレヴェザの海戦

次なるターゲットは、地中海の要衝であるマルタ島でした。

1565年、そのような背景もあって、16世紀のヨーロッパ史において最も有名な「マルタ包囲戦」の火蓋が切られます。

マルタ包囲戦

この時、マルタ騎士団の戦力はオスマン帝国の約1/8程度しかなく、一網打尽にされてもおかしくない状況下で、オスマン帝国を押し退けることに成功しました。

マルタ包囲戦での勝利は、オスマン帝国の不敗神話を崩すターニングポイントとなります。

マルタ騎士団は、立て続けにスペインを中心としたカトリック連合軍にも参戦し、「レパントの海戦」にてオスマン帝国に完勝します。

レパントの海戦



マルタの首都“バレッタ”


バレッタは地中海に浮かぶ島国、マルタの首都です。

マルタの首都バレッタ

バレッタの名前は、マルタ包囲戦で街を防衛したヨハネ騎士団長「ジャン・ド・バレット」から名付けられました。

ジャン・ド・バレット

一連の戦闘に勝利したマルタ騎士団のもとには莫大な寄進が集まり、裕福な家系出身の騎士も多かったことで、その富を元手にしてバレッタには豪華な建造物が建てられていきました。

街の基本設計は、イタリア人建築家「フランチェスコ・ラパレッリ・ディ・コルトーネ」が担当。

碁盤の目状のルネサンス後期の理想都市を目指し、ラパレッリの死後は、助手のジェローラモ・カッサールがバレッタの主要建造物を手がけました。

それらの1つである「聖ヨハネ大聖堂」には、「騎士の出身地の言語別に8つの礼拝堂」があり、それぞれの守護聖人に献堂されています。

聖ヨハネ大聖堂

それから要塞都市としてバレッタは発展していきますが、1798年のナポレオンの侵攻により、十字軍の時代から続いた「マルタ騎士団」こと「ヨハネ騎士団」の旅路は終焉を迎えます。

マルタにはかつて訪れたことがあるのですが、地中海のリゾート地というイメージに加えて、ヨハネ騎士団が流浪の末に残した遺跡群が同居する、素敵な街並みだったのを覚えています。

アッパー・バラッカ・ガーデンズからの眺望

小さな島国にも関わらず、歴史的な史跡の数々を目にすることができるというマルタは、世界に2つとない国といえそうです。

【ロドスの中世都市:1988年登録:文化遺産《登録基準(2)(4)(5)》】

【首都バレッタ:1980年登録:文化遺産《登録基準(1)(6)》】


https://www.instagram.com/gokotta2024?igsh=N3Y0NXRncXV0d3d3


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