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「伴走者」としての教師

とにかく、頭を激しく揺り動かされました。
モヤモヤしていた部分の輪郭が少しはっきりとした気分です。

Online EdCafe 第22回 「伴走する大人とは」
苫野一徳先生・木村泰子先生
茨城県教育研修センター 公式YouTube

パラダイムシフト 〜指導から伴走へ〜

ここ数年、「教師って、そもそも何なんだ。」なんてことを考えていました。
急にパソコンが1人一台配付され、感染症でオンライン授業をしたり。

段々と教師としての在り方について考えることが増えました。
今までの学校教育で評価されてきた教師は、

「クラス集団をまとめ、引っ張る力がある教師」
「全員を同じ方向に向かせる力のある教師」
「答えある場所に導ける教師」

これが、俗に言う指導力でした。
そのおかげで、いじめや不登校などは過去最多。自分の意思とは別に、周りと同じことをすることが正しいという歪んだ認識が醸成されてきてしまいました。

ただ、これを否定すると今度は

「指導しないということは、放任すること」
「学校は、教師は指導が命だ」
「それではいう事を聞かなくなる!」

と、二項対立の形に。
学校現場でも、この類の話はよく見聞きします…

でも、本当に今までもてはやされた指導力がこれからの時代を生きる子供に必要なのか。むしろ、子供にとっては負の影響を与えているのではないだろうか。
そこで生まれた問いは

じゃ、一体「教師の役割とは何なのよ」


この哲学対話を見て、ひとつ引き出しが増えました。

それが「指導から伴走へ」でした。

伴走者とは、
対話を通して子どもの思いを繋ぐ通訳者としての教師のあり方。
子供との信頼関係を築き、子供がチャレンジしたくなる負荷を与えること、そして、求められたときに自然に横にいる。子供同士が自由を相互に認め合いながら、共生する空間を創り出せる教師。

そんな伴走者としての教師になりたいと心から思いました。

体育でも子供たちが自分で答えを見つける学びを提供していきたいと思います!
あー楽しかった!!参加してみたい!!


以下、メモメモ

指導者
伴走者
支援者
役割がそれぞれ違う
今までの指導者という意味の捉え
指導者側が正しい 指導者が上という感覚
指導力向上 ということが学校に蔓延る
伴走は集団?個?
子どもが自ら進めるように軌道にのせるのが教師?
☆「担任として集団を導く必要があるのか」
本当の意味で個人1人ひとりを見ているのか
個を見たいけど集団をどうにかしたいとなってしまう
ここをパラダイムシフトするべき
逆に集団の伴走をできている瞬間はどんなとき?
子供が自走しているとき
その場にいる全ての子どもが育つことを叶えようとすることが伴走?伴走者は子供同士を繋ぐこと 子どもを繋ぐ通訳 個別最適化は手段 目的は共に生きる「机の上に言葉を重ねる」
教師は子供に負荷を与えるは仕事 
全ての子どもがチャレンジしたくなる負荷を与える
今までの指導力は 子どもを説得する力がある人が得たもの 
これからは 子どもを説得させるのではなく、向かう方向を自分で決めて納得させる力
強制と放任の間にある
民主主義の中で共生することが求められる 
対話 ここはみんな納得するね というポイントを押さえていく
集団の中で合意形成をしていく
対話というのは、言葉意外も含めて
対話という言葉自体に相手を大切にするという意味も含まれる
教師の空気、体温、言葉、仕草、考え、思考、癖
全てを通して子供に伝えていることになる
伴走者という役割に対して能動性
ではなく、対話を通して子供と見つけていく
主語はどこにあるのか 本質
伴走のあり方 透明人間、あえて見えるところ
ここでキーになるのが対話自分が困ったときに伴走者を求める
それが正しい形なのかもしれない
対話をするには信頼関係がなければ無理
子供の伴走者は子供なのかもしれない
それを繋ぐ通訳の役割
自分達で答えを見つける学びは「楽しい」

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