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第二章:平氏

時の権力者、崇徳上皇が讃岐の村へと流されて、一年が経とうとしていた。
崇徳上皇の屋敷は、村の最南端、三方を山で囲まれた場所にあった。
京の都の寝殿造りとまではいかないまでも、何不自由ないようにと、家の者も含めて大所帯がまとめて住めるだけの広さを持つ屋敷が用意されていた。
屋敷の周囲には柵が張り巡らされ、村人は用がある時に村長が呼ばれるくらいで、そのほかいっさいの立ち入りを禁じられている。
そのため、崇徳上皇の近辺は秘密が多く、果たして今日、上皇が何をされるのか、村人の中で知る者はいない。
この時代、写真などというものは当然なく、村人は上皇の人相もまた、知る由もないのであった。
そんな上皇が、なぜ讃岐に流れされてきたのか、詳細に把握している村人は皆無であった。
ただなんとなく、中央の政権争いに敗れたのだということを知るのみである。
その政敵であった後白河天皇が、いままさに讃岐の村に対して平氏軍団の追手をさしむけ、崇徳上皇の命を奪おうとしていることなど、勿論、村の誰一人として知る者はいないのであった。

女は、今日も瀬戸内の海に向かい、男たちが漁で獲ってきた魚を開いて干していた。
「お母さん、海のむこうに粒々が見える」
幼子のたわごとにつき合っている暇はないとばかりに、女は手を止めず鼻で笑った。
「お母さん、お舟だよ、お舟がいっぱい見える」
「お舟?」
ここで女ははじめて海を見やった。
果たして、何十隻もの船が、いま目の前の海一面に広がって、いた。
女は幼子をつれて一目散に駆け出した。
村の頼まれ役の九星という流れ者の家へと行き幼子の世話を頼むと、その足で村長の家まで駆けて行った。
女が海の異変を村長に告げた頃、平氏の旗印を掲げた軍団は、船を讃岐の港につけていた。

九星は、村の女から預けられた子を抱いて、西のはずれの自分の寝起きする小屋から、一目散に村の中央に位置する円覚寺へとひた走っていた。
この子の母親の言によると、海に船がたくさん見えたらしい。
十六の頃に自分の村が襲われた、海賊たちの襲来を思い起こさせる。
もう二度とあんな思いは嫌だ――。
九星は円覚寺への道を、ひとりただ走りに走った。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか」
円覚寺に到着した九星は、講堂の玄関口で大きく叫んだ。
「はぁい」
いつもとは様子の激しく異なる九星に、おだやかな円珍が飛んでやってきた。
「どうしたんだ、九星さん」
円珍の後ろに、廟利が顔をのぞかせた。
「船が、村の浜に船がやってきているみたい。それもたくさん。海賊かもしれない。みんな、用心して」
九星は早口にまくしたてた
九星の知らせを受けて、寺では住職の指示により、病人や老人に事の次第が伝えられた。
「海賊とはいっても、我らから取るものなど、何もありゃあせんのにのう」
そんなことを言う者もいたが、その場には、確実に迫りくるなにがしかを待ち受ける、妙な緊張が漂った。
九星と廟利、それに円珍は、寺の垣根の隙間から、外の様子を見守った。
すると、しばらくして、北の浜からあがってきたのであろう、鎧兜をつけた軍団が、わらわらと村を南へと進んできた。
それに対して、南の崇徳上皇の居住地の方からは、これまた鎧兜を着た軍団が、なぎなたを振りかざしてやってきた。
両社が、ちょうど寺の向かいの大通りで、相まみえたのは、その日も太陽が真上に上る頃合いであった。
きん、きん、という金物がかちあう音が、怒声とともに村中に響き渡った。
やがて雄たけび、叫び声、様々な音が入り乱れ、村は混乱状態に陥った。
その様子を、九星、廟利、それに円珍は、かたずをのんで垣根の隙間から見つめていた。
そのうち、斬り合っていた武者たちのなかから、何人かの武者が小柄な武者を抱えて寺の方へやってくるのが見えた。
九星は、子供のころからの癖で、指を筒の形にして、その中から武者たちを除いた。
果たして、小柄な武者は少年のようで、肩から血を流していた。
寺へ通じる一本道を、武者たちはこちらへやってくる。
手当を強要するつもりだろう。
九星はそう判じ、ひとり寺の門へと走った。
寺へと走りくる武者たちは、一人の女が寺の門の前へと躍り出てきたのを見とめた。
「おうい、女、この者の手当を頼む」
武者の一人が叫んだ。
九星は、武者が背負う旗印をちらりと見た。
平氏の旗印である。
十六の頃、九星の村を救ったのは、平氏の軍団であった。
「こちらへ、お早く」
少年兵に肩を貸した九星を見やって、垣根の前にしゃがんでいた廟利と円珍が走ってきた。
「九星さん」
二人も、その場に倒れこんだ少年兵の鎧を脱がしにかかる。
廟利は、少年兵の兜を脱がした。
はじめて見る兜に、その脱がし方も分からず、首元の紐をほどくのに手間取る。
やっと兜を脱がし終えた時、そこにあったのは、まだ年端もゆかない、廟利と同じ頃合いの少年の顔であった。
「君、名前は」
廟利が尋ねる。
少年兵は、薄れゆく意識に抗いながら、一言、こう答えた。
「義孝《よしたか》。我が名は、平義孝」

「義孝どの、義孝殿――」
いくども名を呼ぶ者がいる。
誰かは分からないが、若い男の声である。
もうろうとする意識の中、義孝は目をゆっくりと見開き、自分の額に手を置く者の顔を見た。
若い――。
俺と同じくらいの歳だろうか。
よく日に焼けた、元気な顔をしている。
「そなた、名は?」
義孝は尋ねた。
「廟利《びょうり》だ」
廟利は、きりりとした眉をいっそう寄せて笑顔を見せた。
「ここは、どこだ」
「寺だ。平氏のお仲間が運んできたろう。覚えていないのか」
「そうか、寺か」
義孝は、起き上がろうと試みた。
しかし肩の傷が痛むらしい、顔をしかめると、半分浮いた体を再びどさりと床へと落とした。
「おいおい、まだ寝ていないとだめだろう。傷は相当に深いぞ」
廟利が上からのぞきこむように言う。
「傷は、深いのか」
「ああ、深い。針で十も縫ったぞ。腕は動くか」
言われて義孝は傷を負った左腕の肩から下を動かしてみせた。
「よし、なんとか腕は動くみたいだな」
義孝は、先ほどから親身になってあれこれ言うこの廟利という男児のことを、不思議そうな目で見つめた。
「戦はどうなった」
「先ほど終わった。どちらが勝ったのかは分からぬ。とにかく先ほど静かになったのだ」
「なるほどな。我が軍が一旦引いたに違いない」
「なぜ分かる」
「戦とはそういうものだからよ」
義孝の目が鋭く光る。
そんな義孝を、廟利もまた、不思議そうに見つめた。
ややあって、義孝が口を開いた。
「廟利はここで働いておるのか。見た所、どこぞの寺のようであるが。ここは病の者を集めて世話しておるのか」
義孝が寝かせられている部屋は、寺の最奥の一室である。
この時期、部屋を仕切る戸は開け放たれ、大広間は丸見えであった。
「ははは、質問が多いなぁ義孝殿は。そうだ。ここは寺で、病人や老人を集めて世話しておる。そして俺はここでただ働きをしておるのよ」
「ただでよう働くぞ、廟利は」
どこかから声がした。
「こら、聞き耳を立てるな」
すかさず廟利が責め立てる。
大広間の方から、どっと笑いが起こった。
その様子を見て、義孝はふっと表情を和らげる。
「好かれておるのだな、廟利は」
「からかわれておるのだ」
義孝と廟利は、顔を見合わせて噴き出した。
やがて、大広間の方で、誰かが歌を歌いだした。
調子っぱずれなその音が、戦の合間にあってはかなく聞こえたのは廟利だけではなかった。
「義孝殿はその年で侍をしていらっしゃるが、長いのか」
廟利は、最初に見た時から気になっていたことを尋ねた。
「いや、長くはない。初陣は去年の秋だった」
「なんと、まぁ。若いのに大変なことだ。その年で命のやり取りとは」
廟利はそう言うと大きくため息をついた。
「平氏の家に生まれたが運の尽きよの」
「そんな。立派なお武家の家ではないか」
気まずい沈黙が二人の間に降りた。
そこへ円仁と九星がやってきて、盆にのせた粥を義孝にすすめた。
「かたじけない」
痛む左手をかばいながら、義孝は匙を片手に粥をすするのであった。
しかしすぐそこ、講堂の玄関口には、招かねざる客が訪れていたのであった。

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