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第二章:来客

けんぼうとみっちゃんが社の裏の竹藪で喧嘩をした日の午後、九星は父に言われて家の手伝いをしていた。
九星の家は、村で二番目に大きい漁師の家である。
家は村の西にある丘のふもとにあった。
今日、父と兄たち男衆は朝から漁に出ていておらず、家の中は母と弟と妹たちの女子供、それに手伝いの者たちしかいない。
九星たち女衆は、さきほどから表に通じる縁側の部屋いっぱいに網を広げて、つくろいものをしているのであった。
午後に入り天気は一転悪く、重く冷たい雲が空をふさいでいた。
室内にあって、魚の油を灯しながらの作業である。
「九星、これ、どうやるの」
「九星、ここ、分からない」
手を動かしている間にも、五人いる弟と妹が、ひっきりなしに声をかけてくるものだから、九星の作業はなかなか進まない。
「ああ、それはね」
「ああ、ちがうちがう、そこはね」
たどたどしい手つきで九星の真似をしようと、弟と妹たちは一生懸命である。
そんな彼らの様子を見やって、九星はふふ、と目を細める。
ところが、遠くで、午《うま》の刻《こく》の鐘が鳴った、その時であった。
「ごめんください」
玄関先で、声が、した。
「まぁ、誰かしら。私が出るわ」
九星は網を置いて立ち上がり、玄関口まで出ていった。
果たして、そこにいたのは、壮年の若い男女であった。
男の方は、修行僧のようないで立ちで、男におぶさっている女は旅装である。
明らかに、この村のものでは、ない。
「どちらさまでしょうか」
九星は怪訝そうに尋ねた。
「ああ、突然にすみません。私は源貞観《みなもとのていかん》といいます。こちらは妻の伊代。寺巡りをしている最中なのですが、妻が病に倒れてしまって。こちらの家の前を通った時に人の声が聞こえてきて。すみませぬが、休ませてくださいませぬか」
男は一息にそう言った。
「まぁ、おかわいそうに」
九星は、すぐに母に言って、床を用意してもらった。
貞観と伊代は、網をつくろっていた隣の座敷に寝かされた。
「少々、魚くさいですが、おくつろぎください」
次いで、家の者に手伝わせて、急ごしらえの粥を作る。
「これは、ありがとうございます」
貞観は九星の甲斐甲斐しい働きっぷりに、頭を下げた。
「ほら、お食べ」
貞観は、半身を伊代の上体の下にすべりこませ、口に粥を運んでやる。
伊代は何度もむせかえりながら、少しずつ粥を口に含んでいった。
突然にあわただしくなった家の中で、弟と妹たちが、目をぱちくりさせて来客の様子を遠巻きに覗いている。
幸い、九星の家は村でも裕福な方である。
それを知っている九星は、母と相談の末、この男女をしばらくこの家で世話することにしたのであった。

未の刻を知らせる鐘が、村いっぱいに響くころ。
にわかに表がさわがしくなった。
「あら、何かしら」
九星は、看病の手を止め、表の方を見やった。
空模様は依然としてかんばしくなく、肌に冷たい風が吹き込んできている。
「きゅうせーい」
ふと声がした。
聞き覚えのある声である。
「九星、大変だよう」
一太であった。
見ると、一太は九星の家の玄関口に、つんのめるようにして上半身を乗り出している。
「まぁ、一太、どうしたの」
「九星、大変だよ、みっちゃんが、けんぼうが」
ははぁ、また喧嘩を始めたな、と九星は思った。
「本当にもう、懲りないんだから」
九星がわらじを履き表に出た、その時であった。
「九星」
一太が叫んだその時、九星の視界には、みっちゃんとけんぼうが、いた。
二人とも、こちらへ走ってくる。
しかし、けんぼうが、次いでみっちゃんが手前に派手に転んだ。
その背から、血しぶきがあがるのを、九星は、見た。
何が起こったか分からなかった。
ただ、けんぼうと、みっちゃんが、その場に倒れているのが見える。
二人の背中からは、どくどくと血が流れている。
地面にあふれ出たそれは、じわじわと地を這って広がってゆく。
「けんぼう!みっちゃん!」
九星は、二人に駆け寄った。
背後に迫る、鎧武者の存在を知りながら。
「けんぼう、みっちゃん、大丈夫、すぐに、大丈夫だからね」
九星は横たわる二人の、背中にできた大きな傷口からあふれ出る血潮を、両手いっぱいに止めようとする。
しかし勢いは止まらない。
「なんで、なんで!」
九星は、傍らに立つ鎧武者の男を知らぬうちに睨みつけて叫んでいた。
「九星!」
そんな九星の視界を遮るべく、一太が九星に全身で抱き着く。
鎧武者の男が、二人の傍らに立ち、刀をすっと振り上げた。
「ごめんなさい!」
一太が大声で叫んだ。
「ごめんなさい!ごめんなさい!ごめんなさい!命だけは助けてください!お願いします!!」
一太は刀を振り上げた鎧武者の男に向かい、懸命に叫び続けた。
「一太!」
そんな一太を制しようと、九星はよりいっそう大きな声で、一太の耳元で叫んだ。
一太は九星を両手で制して叫び続ける。
九星は、一太を振りほどき立ち上がった。
「斬るんなら、私を切りなさい!」
「九星!!」
一太が九星を背後からひっつかむ。
「ほぅ、元気な嬢ちゃんだ」
鎧武者の男の、目深にかぶった兜の下から、口だけがのぞき、口角がぐいとあがった。
男は刀をぶんと宙で一度振ると、何事もなかったかのようにそれを鞘におさめた。
「九星……」
一太は、九星に後ろから取りすがって泣きべそをかいている。
その様子を一瞥して、鎧武者の男は、九星を振り返り、ぽつりとこぼした。
「命は大事にしろよ、嬢ちゃん」
そうして男は、村中に響き渡る喧騒の中に消えていった。
立ち尽くしていた九星であったが、何事かと今更出てきた住職に肩を叩かれると、ふつふつと腹の底から怒りが湧いてきていた。
一太は九星のひざ元で泣きじゃくっている。
それを見て、九星は無性に腹が立っていた。
「一太のくせに、余計なことしないでよね」
村には、冷たい雨が、降りだしていた。
なぜそのような台詞が口から出たのか、この台詞を発したことに、九星は生涯後悔することになるのであった。

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