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第五章:疾走

九星は、いまだにおもしろくない思いを抱えながら、一人家路についていた。
大人たちと一太が村中に拵えた罠の、十分の一でも壊せただろうか。
そんなことを考えながら、手に持った枝をぶんぶんと回しながら歩く。
それは壊した罠の、一端だった。
ふん、ざまぁみろ、だ。
見上げると太陽は、真上から、若干西に傾きつつあった。
風が冷たい。
九星の怒りは、一太と別れた時よりは、幾分か嵩を減らしていたが、いまだにくすぶり続けるのであった。

「ただいまあ」
家に帰ると、九星はいつものように帰宅の挨拶をした。
すると家の者が血相を変えて九星の前に現れた。
「ああ、お嬢さん、大変です。一太が」
その顔色は尋常ではない。
「なに?一太がどうしたの」
「はい、一太が、辻のところで斬られているのが見つかりまして。今手当をしておるところですが」
家の者がすべてを言い終わる前に、九星は履物を脱いで土間から上へとあがりこんでいた。
「一太!」
九星は叫びながら家の中の部屋を片端から見てまわった。
果たして、一太が寝かされていたのは、貞観と伊代が寝かされている部屋の隣の、一番奥の部屋であった。
発見した一太は、九星の母に手当をされている最中であった。
一太の上半身は服が脱がされ、白い包帯で巻かれていた。
「母上、一太は」
九星は母の傍らに膝をついた。
「胸をばっさり斬られていてねぇ。難しいねえ」
そう言ったきり、九星の母は押し黙ってしまった。
「一太、一太」
九星は汗をかき苦しそうに息をしている一太の耳元で、願うようにささやいた。
九星は、急に怖くなった。
自分が、『一太なんか斬られてしまえばよかった』などと言ったものだから、こんなことになってしまったのだと思った。
「うう……」
九星はその場でうめいた。
「どうしたの、九星」
母がその顔を覗き込む。
「ちょっと出てくる」
九星はその場を離れ、家の玄関口まで走っていった。
そしてその場でうずくまってしまったのであった。
私が、一太に、斬られてしまえばいいと言った。
私が――。
あの生意気な一太が、今、瀕死の重症を負っている。
ざまぁみろ、だ。
でも――。
私のせいだ。
どうしよう。
ばれたら、どうしよう――。
九星は、そう思うと途端に己の足場が崩れたように感じられた。
誰か、助けて――。
真っ暗闇の中、九星は落ちてゆく。
気づくと九星は、家の玄関口でわんわんと泣いていた。
「どうした」
「どうした」
その声を聞きつけて、大人たちがやってくる。
ある者は九星の肩を抱き、ある者は足元にしゃがみして、きっと一太がやられて気が動転しているのだろうと思われる九星を慰めた。
しかし、九星は知っていた。
「違う、違うの」
そう絞り出していた。
「九星、何が違うんだ」
九星は、もう止めることができなかった。
「私が、一太をけしかけたの。一太に、『一太なんか鎧武者に斬られてしまえばいい』って言った。村にしかけられた罠も壊してまわった。悔しかったから。一太が村で人気者になって悔しかったから。私が一太をけしかけたの。だから一太がやられちゃったの」
そう言いきると、九星はその場に崩れ落ちてさめざめと泣いた。
大人たちは、子供のたわごとだと呆れる者、その言葉を真に受け責める者とに分かれた。
しかし前者にあっても、村の罠を壊して回ったことには憤慨した。
「ごめんなさい」
九星は謝りに謝った。
ただでさえ海賊騒ぎで殺気立っている村に、九星の泣き声である。
しだいに、大人たちの中にはいらだつ者が増えていった。
「この、馬鹿野郎が」
「一太に許してもらえると思うなよ」
口の悪い者の中には、直接そのような言葉を九星に投げかける者もいた。
その言葉を受けて、九星は、「こんなに謝っているのになぜそんなことを言われなければならないのだ」といった怒りが芽生えていた。
しばらくして、騒ぎを聞きつけて九星の母が玄関口までやってきた。
「九星、何泣いているの。一太が呼んでるよ」
言われて九星は、一太のもとへ駆けて行った。
見ると一太は、苦しそうな顔ながら目を少しだけ開けていた。
その目は九星を捕らえている。
「きゅう、せい……」
苦しそうである。
九星は、なぜだかその瞬間、少しうれしかった。
「一太」
九星が一太の口元へと顔を寄せる。
「一太、大丈夫、大丈夫?」
我ながらおかしな問いかけだとは思いながら、九星はそう繰り返した。
「大丈夫。それより、これ……」
一太はそう言うと、右手につかんでいた布切れを、九星に手渡した。
それは、辻で平氏の兵が手渡した、地蔵の前掛けであった。
「何?何なの、これ」
手渡された前掛けには、血で何かの模様が描いてある。
「これはね、暗号なんだって。これをね、平氏の軍団に見せたらいいって、おじさんが言ってた」
「おじさんて誰?一太?」
「走って……」
そう言うと一太は力なくその目を閉じた。
「一太!」
九星が呼びかけるも、返事は無い。
一太――。
一太が言い残した言葉を胸に、九星は立ち上がった。
訳が分からないけれど、九星はとにかく走るしかなかった。
一太――。
とりあえず、村全体が見渡せる、西の丘へと急いだ。
走って、走って、走った。
足がもつれ、喉が渇いたが、走りに走った。
一太――。
九星の頭の中には、一太が言い残した言葉が響いていた。
走って――。
なんで私が一太のためなんかに――。
そんな思いが去来する。
しかし、とにかく九星は、走りに走って、西の丘のてっぺんに立った。
その頃には、激しく肩で息をし、全身が大きく脈打つのを感じていた。
目を見開き、口を大きく開けて息をする。
一太――。
九星は、指で輪を作り、村全体を眺めてみた。
果たして、東の浜の方に、黒い人だかりがいくつも見えた。
海賊か、それとも平氏の軍団か――。
一方で、沖合に船がいくつも見えた。
こちらもどちらか分からない。
走るしか、ない。
九星は唾を飲み込み、丘の上から、今度は東へと、走り始めた。
手には地蔵の血塗られた前掛けを持ち、地蔵の立つ四辻を東へ、ひた走った。

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