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終章 それから

それから一か月が経った。
柳場の一件があって後、陰陽寮では上から下まで事後処理に追われていた。
今日も廊下を上へ下へと学生たちが走り回っている。
「ああ、その字は違う――」
後輩の書きかけた報告書の誤字を見やって、真中が指摘する。
陰陽寮の奥庭に面した部屋の一室で、真中は今後輩たちの指導にあたっていた。
そこへ、廊下をぱたぱたと歩いてくる音がする。
「真中、昼にしよう」
そう顔を出したのは、同僚の玄奈と雅之であった。
真中は顔をほころばせると、ああ、と言って身支度を始める。
今日は午後から、柳場の稲荷神社へと行く用事がある。
報告書を出してから、三人はそろって牛車に乗り繰り出した。
天気は快晴、抜けるような青が空一面を埋めている。
そこを、五月の風が、気持ちよく吹き抜けてゆく。

「ちょっと、遅かったんじゃないの」
三人が稲荷神社へ到着すると、祠の前で待っていたのであろう、お香がぷりぷりしながらやってきた。
「ごめんごめん、後輩たちの面倒を見るのに時間がかかっちゃって」
真中が言う。
揃ったところで、四人で祠に向かい、お供え物を備え、手を合わせた。
各々、祈ることは、もちろん、この世の安寧と、平安京の無事と、その他、家の安泰などだ。
「どうだい、狐様のおつきになって」
「どうもこうもないわよ。暇で仕方がないわ。狐様は四六時中あっちこっち飛び回っていらっしゃらないし、境内の掃除はあらかた終わってしまったし」
「ははは、まぁ、いいんじゃないの。何もないっていうのは、平和な証拠だよ」
「それもそうね」
言ってお香は笑う。
もう奇怪な面はつけてはいない。
狐へと身を捧げると誓った際に、不思議なことにはがれてしまったのだった。
「あっちはどう」
玄奈がお香に問う。
「あっち」というのは、もちろん、怪の世界のことである。
狐に身を捧げたお香は、既に半分、人の世を捨てており、怪の世界に生きている。そのためお香は、怪の世界に通じているのであった。
「相変わらずみんなつつましく暮らしているわ」
お香に言わせれば、あの時大穴にのみこまれた兵士は、貞盛をはじめあらかた大なまずに喰われたけれど、生き残った面子は肩を寄せ合って暮らしていいるという。怪の世でも、人間が生きていけないわけじゃないらしい。
「一色は」
真中と玄奈、二人そろってお香に問う。
「相変わらずよ。よろしくって言ってた。特に雅之様に」
「ちっ」
雅之は内心、舌打ちをする。
雅之が一色を大穴へ落したことは、ここにいる面子をはじめ、誰も知らないことである。これがばれれば陰陽寮にいられなくなるどころか、誰かに恨まれ闇討ちにあう可能性すらある。
雅之は、一色に弱みをにぎられた形になっているのである。それを承知で、一色はこうしてお香に意地の悪い言伝を頼むのであった。
無論、他の面子は、一色と特に仲の良かった雅之を、一色が特に恋しがっているとしか思わない。
存外に、意地の悪いところがあったものだ。
「え?雅之、何か言った」
真中に言われ、いや、と慌てて返す。
隣では、毒にもならない世間話がまだ続いている。
一色とは、またどこかで会いそうな気がしている。
雅之のそんな内心などかまうものかというふうに、五月の風が、四人を包み、通り過ぎて行った。

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