第三章 稲荷神社
「こりゃあ、後始末が大変ですねぇ。」
夜半の女の声でも目覚めず、一人熟睡していた鈴が起きぬけに田畑を見て発した第一声がこれだった。
目の前には、髪の毛でびっしりと覆われた田畑が広がっている。
「君は、お父さんほどには悲観していないみたいだね。」
鈴の隣、田畑の縁の草地に腰をおろしながら一色が言う。
「悲観したって仕方ないでしょ。ここで生きていくしかないんだから。」
近代とは異なり、この時代を生きる人々の多くに、転居や職の自由はない。
「そうか。」
それだけ言うと一色は黙り、朝餉《あさげ》までの間の一時を、健気な少女と共に過ごすのだった。
「それで、何か手はあるんですか?」
朝餉が済み囲炉裏を囲む中で誰ともなく与兵衛が尋ねた。
「僕は昨晩、不思議のあった土地を中心に、周辺の住民に聞き込みをしてみたいんだけど」
そう口を開いたのは真中である。
「僕も賛成だな」
玄奈が追随の姿勢を見せる。
「そうか、じゃあ、二手に分かれよう。
私は近くの稲荷神社へ行ってみたいから。
上司にもらった文書が正しければ、この近くにあるはずだ。」
一色が、板の間に地図を書いて見せる。
俺も行こう、と雅之。
鈴が、途中まで道案内を買ってくれるという。
「しかし、なぜ稲荷だ。」
雅之が問う。
「そりゃあやはり、土地のことは土地神様にというわけだよ。」
そう言うと一色は、にっと口の端をあげた。
例の土地のちょうど真北にある山、その山の東のふもとに目的の稲荷神社はあった。
「じゃあ、私は畑仕事があるからここで。」
小屋から案内してくれた鈴とは鳥居前で別れ、一色と雅之は薄暗く細い参道の階段を昇ってゆく。
参道の両側からは常緑樹が覆っていて、そこから木漏れ日がもれて二人の上にまだら模様を作っている。
「そういえば、君はなぜ陰陽師になろうとしているの、雅之。」
階段を昇りながら、一色が問う。
「どうした、急に。」
じゃりじゃりと足元で小石のすれる音が二人分、響いている。
うぐいすの鳴く声が、二つ、三つ。
まだ肌寒さの残る風が山肌をくだってゆく。
「いや、昨夜の続きだよ。」
お前のためだ――。
「なに、遠い親戚が陰陽師でね。つてを頼ってという奴さ。」
出かかった本音を押し込めて、雅之は一段、また一段と足に力を入れる。
「そうか。」
そんなことなどつゆ知らず、一色は言葉少なに返答をする。
このやりとりが後々意味を持つとは一色は知る由もない。
それから境内に着くまで、二人は口をつぐんだまま参道を昇り続けた。
境内に着くと、一色と雅之は、まずあたりを見回した。
小高い山の山腹、人がぶらりと歩いてちょうど回れるくらいの広さの境内である。
境内の奥、四角く切り取られた敷地の中央に、社が一社、建てられていた。
社の両脇には、狐の阿吽像が鎮座している。
一刻も早く事態を解決したい二人である。
一色は社の前にずんと立ち、胸を張った。
「さて、さっそくお呼び出しするか。」
「まさかお前――。」
このとき雅之は、はじめて一色の思惑を知った。
「そのまさかだよ。」
言うが早いか、一色は、鈴に握ってもらったおにぎりを社に供えると、垂れていた鈴を鳴らし、二度、深く礼をし、さらに二度、大きな柏手を打った。
それから手早く印を結び陰陽の構えをとると、目を半ば閉じ、口から呪言を繰り出した。
見る間に、青白い陽炎が一色を包んでゆく――。
衣ははためき、一色を中心に生温かな風が起こる。
「一色――。」
乱れ飛ぶ木の葉に目を開けていられず、雅之は両腕で顔を覆い、中腰の姿勢となり体幹を下げる。
風は大風となり、今や山をも飲み込む勢いである。
勢い、社の戸が乱暴に開かれる。
中は空洞――。
荒れ狂う風の中、どこかから、甲高い鈴の音がちりりと聞こえる。
それを全身でとらえると、一色は両の腕を大の字に広げて放った。
「いでませい。」
ちり……と、鈴の音がやんだ。
ゆるやかに風もやんでゆく。
かがんでいた雅之は、顔を覆っていた両腕を下げ、おそるおそる辺りを確かめる。
すると、社の中央に、にぶく光るものがある。
よくよく目を凝らす。
「おいおい、乱暴じゃのう。」
声はその光の中から聞こえる。
ようやっと放たれている光が収まると、そこには一匹の狐が鎮座していた。
「お久しうございます、お狐様。」
一色は構えを解き、うやうやしく頭を垂れた。
一色をまとっていた青白い光は、なりをひそめている。
「一色……?」
雅之はおそるおそる一色のいる場所まで進み出て、一色と目の前の狐とを見比べる。
「このお方は?」
「ああ、お狐様じゃ。幼いころからの顔見知りでな。」
「おい待て小僧。儂はおぬしなど知らぬぞ。」
見ると狐は、一色が供えたおにぎりをうまそうに喰っている。
「毎度毎度、そうおっしゃる。
無理もございませんね。
各国の稲荷神社で、毎日何人の人が狐様に祈りをささげているかを思えば、覚えていただくのも難しい話。」
「よく分かっておるではないか、小僧。
物分かりの良さに免じて非礼は許そう。
して、要件はなんじゃ。」
狐はゆびに残った米粒をぺろりのなめる。
「話が早くて助かります。
この山のふもとの一角に、明らかに何者かによって呪術を施された土地がございます。何かお心当たりはございませんか。」
展開の早さに、雅之はおいかけるのがやっとである。
「知らん。」
狐はぴしゃりと言う。
「あそこは守備範囲外じゃ。
ただでさえ都の裏鬼門じゃろ。魑魅魍魎を呼びやすいんじゃ。
不作続きでも不思議はあるまい。」
「もうお一声」
一色は、更に懐からおむすびを取り出す。
それを受け取りながら狐は答える。
「知らんと言ったら知らん!
ただでさえ不作続きの土地、儂への供え物も少ないんじゃ。
どうしてそんな奴らを守るかという話じゃわい。
人の世の事は、人に聞くのがよかろう。」
そう言い捨てると、狐はしゅるりと尾を巻いて、その場から姿を消してしまった。
「あっ、狐様……。」
まだもの言い足りなさそうに一色が手を伸ばすが、その手はむなしく空を切った。
「いやはや、先祖が狐だという話は本当だったか。」
ようやっと全身の力みを抜いた雅之が、一色の肩を叩く。
「いや、私はただ会う術を身につけているだけに過ぎない。
それに、めぼしい成果も得られなかった。」
一色は珍しく気落ちの姿勢を見せる。
「そうとは限らんさ。」
雅之がにっと笑う。
その顔に、一色は視線を向ける。
「というと?」
「狐様も言っていたではないか。
人のことは人に聞け、と。
村に戻って真中らに合流じゃ。」
こうして二人は、稲荷神社を後にしたのであった。
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