私たちをどこまでも追いかけて、けれど救いをくれるもの~ドライブ・マイ・カー感想

ドライブ・マイ・マイ・カーで感じたこと。月並みで凡庸な表現になるのだけれど、それはコミュニケーションだと思った。自分はコミュニケーションが苦手なのだけれど、作中にもそういう人はたくさん出てきて。そしてどれだけ他人を避けた人生を送っても、コミュニケーションからは逃げられないのだと、しかしそのコミュニケーションだけが、人を少しだけ救ってくれるのかもしれないと、そう思った。

高槻

高槻はどうだっただろう。

彼は一見コミュ力が高くて社交的で陽気な人に見える。けれど実際は、人とのコミュニケーションがセックスと暴力に発露する男だった。話術があって、稽古終わりに演出家に直談判しに行けるほど行動力があったのに。

途中さらりとこなしていたけれど、言語が本当に全く通じない人間とセックスで通じ合うというのは、冷静に考えるとめちゃくちゃ凄いことだとは思う。男社会や飲み会でヒーローになれそうだ。ある種、コミュニケーションの可能性を一番示していたのではなかろうか。

そうは言っても彼が為したことは、結局人を殺すことだった。防犯カメラに自分の生きた証を残すように、「僕がやりました」と言葉を残していったけれど、だから私は、彼がセックスと暴力の人間なのだと思ってしまった。

しかしその直前、家福の車の後部座席で二人が向かい合うシーンは圧巻で、高槻の表情たるや凄まじいものがあった。カメラに向かって放たれたここでの言葉こそ、高槻が本当に残したものだったのだと思う。彼がそのことに、自分がセックスと暴力以外の何かを残せることをもっと早く信じられていたら何かが変わっていたのかもしれない、と思う。しかしどうなのだろう。彼はそう簡単に自分と折り合いをつけられただろうか。

「自分と折り合いをつけていくしかない」という言葉は、最近の人生で私自身が嫌というほど骨身に染みて感じていた自分の課題で、だから高槻の口からその言葉が出たことに衝撃を受けた。もしかしたら、自分もどこかで高槻のような人生を歩んでしまうのかもしれない。高槻を見送った私は、そうならないことができるだろうか。他人から逃げ続けたとしても、それでも自分自身とのコミュニケーションからは、決して逃げることはできない。高槻の生き様を見て、私はそう思った。


ユナとユンス

ユナとユンスはどうだっただろう。

言葉が話せない、異国の地に二人きり、という最も過酷な状況にいるのに、彼らが最もコミュニケーションに長けていたように思う。

それはどうしてだったのか、コミュニケーションが苦手な私には核心をついた答えがわからなかった。高槻や他の誰かのように、うまくいっていない人のことはわかるのに。

流産という残酷な過去を乗り越えて、二人で手を取り合って少しずつ前に進む。結局これなのかなと思った。それくらいしかわからなかった。そしてそれと似て、最後の「ワーニャ伯父さん」でのユナの演技は本当に心に迫った。人生の答えは全てあの台詞に詰まっていたのだと、誇張を抜きにしてそう思う。

ユンスとユナ、二人の演技もとても好きだった。ユナは何を言っているかひとつもわからないのに、手の動きと表情と目と、それだけで心を揺さぶられて、最初のオーディションのところで涙が出てしまった。言語化できないどころか脳が追いつかない感情で、訳もわからないまま涙が出るのはかなり貴重な経験の気がした。
ユンスの雰囲気も好きだった。日本語は片言なはずなのに、立ち居振る舞いや表情も全て「演技」なのだと思い知らされた。彼が家福に宿を紹介しているところや、自宅で食卓を囲んでいるシーンは特にお気に入りだ。


家福と音

家福と音はどうだっただろう。

20年以上に及ぶ夫婦生活を円満に送っていた彼らは、傍目から見ると最も理想的な人間関係に見えただろう。現実で見ることがあれば自分もそう思うはずだ。けれど実際はそうではなくて、夫以外の男を求め続ける音とそれに気づかないふりをする家福という、水面下ではかなりどす黒い渦の巻いた関係だった。それでも「愛してる」という言葉に双方まったくの偽りがないというのが、この夫婦の凄みだと感じた。ありがちなただの破綻した夫婦というわけではなくて、混じりっ気のない本当と、ほんの少しの、けれど黒々とした嘘と隠し事が混在する、とても複雑で魅力的な関係だったと思う。

不倫に走った音が悪かったのか、それに目を瞑り続けた家福が悪かったのか、単純な二元論では決着がつかない。二人とも何かが欠落していたのかもしれない。確かに言えるのは、この映画のテーマだと私が感じた「コミュニケーション」が実はこの二人が最も欠けていたのではないかということだ。日常的に言葉も体も交わしているけれど、避けてはいけない一点だけを避けながら歩いているような、そんなコミュニケーション不足だったような気がするのだ。

それでも、死を迎える朝、音は一歩を踏み出そうとしたのかもしれない。家福も、妻が死んだこと・みさきとの交流という引き金があったとはいえ自身の感情を発露させることができたのだから、何かきっかけがあれば根本的に変わっていた二人なのかもしれない。20年以上の生活をもってしても辿り着けない人間関係への絶望と、それでもどこからでも人は変われるという希望の二面を教えてくれる関係だったと思う。


家福とみさき

家福とみさきはどうだっただろう。

映画が始まった当初、最もコミュニケーションをとっていなかった二人だ。みさきは無口だし、家福も勝手にドライバーを決められて不機嫌で(家福の子の感情は理解できる、あの女性プロデューサー?柚原さんは本当にヤバかった、終始怖かった)、二人の間にほとんど会話が無かったからだ。

二人の間にあったのは「みさきが運転する車に乗る」という、最初はそれだけのことで、言葉すらなかった。けれどそれだけのことでも家福にはみさきの運転が心に伝わっていたし、みさきにも音の声と家福の芝居で確かに彼の人間性が伝わっていたのだと思う。高槻のコミュニケーションとしてのセックスもさることながら、こんなふうに言葉を交わさなくても成立するコミュニケーションが、本当に尊く、手に入れ難く、愛おしい。これは紛れもない人間賛歌だと思う。

それでも、結局は言葉を交わすことで関係は深まっていく。互いに口数の少ない二人が、ぽつぽつと自分のことを、過去を、罪を話し合っていく過程がとても丁寧に描かれている。この「深め合っていく」過程を、映画という限られた時間の中で描いて、けれど確かにこの関係は長い時間をかけて醸成されたものなのだと感じさせてくれるのは本当にすごい。
長い時間とは言っても、これは所詮、家福が音と過ごした時間の何百分の一ほどの時間なのだろう。けれど確かに、家福とみさきの結びつきを私たちはひしひしと感じることができた。二人きりのドライブ、タバコ、ひとときの逃避行。どこにも無駄がない、どれもかけがえのないコミュニケーションだったと思える。

そして最も私が心惹かれたのが、二人の抱き合うシーンだ。男女が抱き合うというのは恋愛的・性的な意味合いも強い。家福と音のセックスや、音と高槻の情事でも、「抱き合う」という行為は強く描かれていた。
けれど家福とみさきの抱擁は、それらとは全く異なる。彼らは恋人ではないし、家族でもない。赤の他人の二人が、それでもひしと抱き合う。心を埋め合う、と言ってしまうと少し違う気がしてしまうが、それと近いような、互いの人生を埋め合うような、そんな抱擁のような気がした。

「ワーニャ伯父さん」のラストシーンでも、ユナが家福を(ワーニャを)後ろから優しくかき抱いていた。家福の身体に優しく刻まれる手話の手が本当に綺麗で美しくて、月並みな表現だが胸がいっぱいになった。脳が焼けるようだった。
手話だけでなくて、抱擁には、ハグにはきっと人生を変える意味が詰まっているように思えた。自分も、恋愛的や性的な意味だけでない、誰かとの抱擁をしてみたい、そんなコミュニケーションをとってみたいと、切に思った。


以上が、「ドライブ・マイ・カー」から私が感じたことだ。
人生を歩む限り、私たちをどこまでも追い続けてくるもの。けれど辛い人生にほんの少しだけ救いをくれるもの。誰かとの、あるいは自分とのコミュニケーション。
そんな価値あるものを、いつか得てみたい。誰かに与えてみたい。家福がみさきに自分の車を与えたように。そんなふうに人生を混ぜ合えたら。そのための抱擁を誰かと、あるいは自分と交わすことができたら。それはどんなに幸せなことだろう。心の底からそう思える映画だった。


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