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コロナ禍の今だからこそ「あたりまえの有難さ」に目をむけることで、幸せの入り口にたてる。


しゅんしゅしゅんです。

世界は贈与でできている。

コロナ禍のいま、コロナ禍に端を発しSNSで悲しい事件が起きているいまだからこそ、読むべき本がある。それが近内雄太さんの「世界は贈与でできている」だ。

あらゆるモノの価値をお金により見える化して、価値に見合うお金と交換する資本主義経済の中で、お金では見える化できない不合理な行為である「贈与」に切り込んだ本だ。

合理的な交換行為が主である現代社会において、不合理な「贈与」とは何であって何でないか、そして「贈与」はいかにして発生し、「贈与」という行為は人間に何を与えるのか。

近内さんの「贈与論」はとにかく知的好奇心に満ちあふれている。贈与という行為の荘厳さに胸をうたれ、幸福な人生の指針、人の到達点としての大いなる可能性を強く感じてならない。現代の重心はきっとここにあると信じてやまない。

要約することがはばかれる本であり、原文の一言一句を堪能してほしいのだけど、あえて内容を単純化してみる。

まず贈与とは「見返りを求めずに相手に何かを与えること」だ。そして贈与とは自分自身が「実は何かを受け取っていたこと」に気づくことを起点として、「これまでに受け取っていたものに対するお礼」として発生する。

秀逸だがどこか無味乾燥とした等価交換をベースとした資本主義の交換経済のなかで「等価が成り立たない」=「不合理さ」を感じることで、はじめて人は強烈な「人とのつながり」や「生の肯定」に気づく。

贈与にきづき、返礼としてまた誰かに贈与を行うことで、信用関係から信頼関係へと発展したコミュニティの中で自己受容に達した人は、貢献感を感じ続けることで永続的な幸せを享受できる。

今のところの僕の理解はこうだ。綺麗言だと切り捨てることもできるだろう。しかし信じて損はしないたしかな真理だと思う。

■コロナ禍で「当たり前の有難さ」に目を向けること

つまり、幸せの起点は「そこらに転がっている与えられているという事実に気づくこと」なのだ。

感謝の反対は「怨嗟」ではなく「当たり前」だという考えがある。日常に潜む当たり前なことに目を凝らすことで、自分は生かされているのだという感覚をもつことが感謝につながるということだ。

「日常の小さな幸せに目を向けて感謝しよう」は自己啓発界隈では手垢のついた言葉かもしれないが、贈与理論にふれたいま、深みを増してくる。

本書内には、人というものは「ないものには気づけるが、あるものには気づきにくい」という金言がある。

まさに、だと思う。日常が日常通りに過ぎていくなかで、「何も起こらなかったことこそがひとつの達成だ」と認識することは、たしかに難しい。

しかし、コロナ過のいま、その日常の有難さには容易に気づくことができる。生命と経済のバランスの舵取りに奮闘している行政の方々、危険を顧みず責務を全うする医療従事者の方々、インフラを支えるためステイホームなどできない業職種の方々。こういったわかりやすい対象はもちろんなのだが、さらに感じることがある。

自粛期間中であっても物資調達のために夜に街中に出ることがあるが、街は閑散としている。店舗の灯りが消えた街を歩いていると言いようもない寂しさと不安感にさいなまれたりする。

99%のお店には立ち寄ることはないが、店舗のひとつひとつが夜遅くまで灯りをともして営業をしているということそのものが、僕の安定した日常を陰ながら支えていたりするのだろう。

大きいことから、ほんのほんの小さいことまで、世界が誰かの仕事でできていることに気づくことができるのが今だ。こわされた日常の不便や不安を怒りに転じることもできれば感謝に転じることもできる。有難さを怒りではなく感謝に向けることで、アフターコロナ化で幸せの入り口にたち、贈与の差出人になることはきっとできる。

ピンチはチャンスとはよくいったもので、当たり前がこわされた時に何に気づくかということなのだろう。そんなことに気づかせてくれる本書を少しでもひろめたいと思う。

誰かに届けばいいなという祈りをもって。

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