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2023 食事と短歌日記 7月

とぷとぷと牛乳を入れ果実酢と混ぜ合わせたり暑き夕べに 

7月上旬、しごと、大きいものが重なり気が抜けず。
未経験の分野を引き継ぎが充分なされないまま、まわしている。それでも、私はできてしまう。できてしまうから、自分がもっと、できません、やらないです、というスタンスの人間だったら良かったのか、と悩む。
全体的なことを見て、やらないと、引き受けたんだから、と呑み込んでやってる。それは正しい、正しいと思って、働く人としての役割をしている。こういう責任感で生きてる。それから、ひたすら数字やデータのチェックをやり、本来のひと対ひとの部分のしごとが遠い。こういうことは中にいないとわからない。
しごとが🟰人生になるのは嫌だと思っていても、そうならざるを得ず、まわりを安心させるという理由をやりこなしているところがある。
現実的に生きている、とても。
しごと以外ではふらふらしてるのに。

7月中旬 
自著を謹呈したり、相変わらずしごとに追われて、本棚の前で途方にくれるなどしていた。
短歌の世界は、変わりつつあるけれど、謹呈が文化的に続いていて、それを私もそういうものとしてやってきた。それで、謹呈として送ってから、あ、短歌の人以外にこの謹呈て、強引だわ…と反省した。短歌の人同士は、ありがたかったり、お互いの頑張りの可視化であって、どしどし私は読みたいと思う。短歌ブームらしく、まあそうなんだけど、歌集が読まれているというより、短歌の本が読まれている状況なのでは。どこの深さで短歌とやりやっていくかは、各人のやりようだと思う。


7月下旬
しごとのピークがややおさまり、しかし、他のことも色々抱えつつ、こんなに辛抱強くやる性分だったか?と自分を疑う。
詩のことを思ったりもした。しんどいひとに響きすぎる詩も考えものなのか?とか、詩てそもそも何だっけ?とか、何年も手離さずにやってきたからこそ、立ち止まる。短歌とは違うスタンスでやっている。

それから、世の中の家族にまつわるイメージについて考える。父母がそろっている家族がイメージとして多く受容されるものなのかな?、と、ある絵を見て思った。それはイメージであって、現実は複雑なんだけど、そのイメージの前に考える自分がいた。多くの多様な家族がいる時代なのだと思う、けれど、一方で、父母子どもが大きくあって。
これは、他のことでも考えることで、多数からこぼれていくものについて見るか/見ないか、みたいな話だ。
小さな声を聴くことができる文芸が短歌という詩型なので、そのこぼれていくものを私は引き受けようとも思う。

7月読んだ本たち

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