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春の日記③ 卵丼、そして災害なのか

とろとろの卵丼なり不条理を分かち合ふため力をつける

にしん

さかのぼる日記。GW。

5月3日(月)

休みは時間が過ぎるのが早い。歌集の書き写し、ニュース、散歩で終わる。昨日の「マスクして屋外でも感染する」という大臣の発言。GW明けから仕事どうするんや?という気持ち。しごと、オンライン配信に大きく切り替えないと本当にどうなることかと思う。ここ一週間ほど、戦争ではなく、災害に喩えられているコロナ。コロナ、<終わらない災害>のようだ。

5月2日(日)

近所の友達と会う。お互いに仕事のモヤモヤを共有する。美味しい珈琲を飲む。コロナが過ぎたら、岩盤浴に月イチ行く約束。思いのほか近所も人が動いてる。開いてる店に集中している模様。この友達と会うと卵丼が食べたくなる。ネギと卵とだしのきいた卵丼。

5月1日(土)

電子書籍で漫画をひたすら。『ミステリという勿れ』。伝えたいことがよくわかるし、面白い。主人公に共感。オリンピック、ボランティアで医師や看護師が動員とか。無理だと思う。このあたりで方向転換を。それか、全世界それぞれの場所から、リモート開催か。日本は海外に比べて教育にお金かけてこなかったから、つまり長いビジョンがなくて、色々な場面でこうなったのだと思う。政治家になる?という選択肢が子どもにあまりない。心意気、賢さ、環境の設定が大事。マイスター制度導入するとか、色々転換期。

コロナ禍が過ぎたら(この最中でも)、訪問介護の充実、教育の再編、医療の充実ができる人を政治家に。

4月30日(金)

今日は年休。実家で肉じゃがを食べる。珈琲を飲んだりお取り寄せのお煎餅なども食べる。しばらく緊急事態宣言は解除にならないでしょう。市内の感染経路不明の増加をチェックしてると、変異株がいかに広がりやすいか。関東圏の人たち、変異株は本当に厄介ですよ。仕事終わりに救急車両とすれ違う確率が明らかに多い。

NHKの番組で、昨年バス停で強殺された女性のドキュメントを見る。コロナ禍で仕事ができなくて路上で過ごすことになったわけで、なんの罪もない人に狂気が向けられて、ここまで擦り減った社会の現状に言葉が追いつかない。追いつかないけれど何か言いたくなる。コロナ禍のなかで、その後、悲惨さは増す気がする。阪神大震災のあと、少年事件が増えたりしたことが思い出される。いろいろ歪みが出てくる。こころの貧困、暴力の連鎖、救いがないことが歪みをつくる。現状身の回りだけしか、自分のしごとは行き渡らないが、関わった人がそこに落ちないようにしごとをしないと。

4月29日(木)

休み突入。こんなコロナ禍でも、会いたいなあと思える人がいるのは幸せ、と思って昨夜は夜道を運転して帰宅。生と死が本当は日々隣り合わせということに思い当たる。本当に、本当に、どう生きる?というのが大事。田舎でしごとして、職場と家とスーパーの往復で、ギラギラする欲望もないけど、自分の生活を維持するのに手は抜いてない。誰もが本当はそう。誰もがそうしたいし、そうできなくて苦しい人も含め、コロナは突然生活を奪うのだろう。特効薬がすみやかにできることを願う。

薬が出来るまではステイホームを頑張るくらいの勢いでやらないと、変異株を乗り換えることはできないと思う。社会の仕組みが追いついてない。GW明け、まだ対策はマスクと手指消毒と換気とソーシャルディスタンスしかない。


未来5月号の海彼通信、黒瀬さん(黒瀬珂瀾さん。にしんの短歌の師)の言葉を書き留めておく。読みながらはっとしたので。以下、引用。

「短歌を作り続けること、それはもちろん、生きる自分の息遣いを記録してゆくことだが、その過程において、自分がどのような死を準備してゆくかを見つめることでもあろう。だからこそ短歌を通じて、死者の言葉に耳を澄ませることが大切なのだと言える」(未来5月号 海彼通信より)






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