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「教えない」という選択肢を持つ指導者

「頭を使ってサッカーをする」ことが理解できるようになったのは、サッカーを指導する立場になってからだった。それまでは自分のポジションから見える景色だけでプレーを選択していたし、フォワードの役割とかよく分からなかった。

所謂「言語化」というかっこいい言葉の重要性が少なくともサッカー界では取りざたされているけど、つまりは”ちゃんと説明できるか?ってこと。

思いっきりバーンっと蹴るとか、腰を落として体を入れるとかではなく、じゃあどれくらいの強さで、足はどの角度で、どれくらいの低さで、相手がどういう状態のときにって答えられる知識が指導者にはある程度必要。

コーチを3年間やっていた時期は本を読んだり講習会へ行ったり栄養学を勉強したり、教えたいけど自分の知識では不十分なものはとにかく勉強した。

一方そんな中で、「おれって選手のときコーチから何を学んだんだろう」なんて大変失礼なことを、学びながら疑問に思ったりなんかもした。

感覚でやってた部分やメンタル面のことはよく言われたけど、例えば「サッカーとは何か」的な解釈の仕方は全く知らなかった。

でも時間が経ったときにふと思った。

自分の今までのコーチたちはその知識を知らなかったから教えることができなかったのではなく、知ってたうえで教えなかったのではないのか

これは実体験としての感覚だけど、成長期の子どもは本当に吸収が速い。しかしそれは良いことも悪いことも。

教える内容によってはそれが将来武器になるかもしれない一方で、変な癖にもなり得る。その二面性の理解なく、例えばだが「プロテイン飲んだ方が身体大きくなるよ」とだけ言ってしまうのはあまりに危険で無責任なこと。

教える内容のメリット・デメリット、作用・副作用を理解したうえで、年代に合わせて何を提示できるのか。その力量こそ指導者に求められるものの一つなのかもしれない。

「知らない状態でいる」のは三流

「ただ何でも教える」のは二流

「教えた後にどう影響するかまで考えたうえで

教えないことも選択できる」のが一流

という自己流の指導者論を今作りました。

だから以前の僕のように「あの指導者から何を学んだんだ?」などと失礼なことを思う前に、もう一度思い返すべきことがあるかもしれません。もちろんただ単に不勉強なだけの指導者もいるので何とも言えないところはありますが。

また指導に限らず、知識と選択はセットです。知っているからこそ「やる」「やらない」を選ぶ権利を持ち、知らない人は選ぶ余地なく、周囲に流されたり、なんとなく選んで終わりです。

少し逸れた話になりますが、例えばこの前の都知事選だってただ投票へ行かなかった人もいれば、誰の政策にも納得せず「投票しない」という選択肢を選んだ人だっています。結果だけ見れば同じ一票ですが、僕はそういう選択肢だってあると思います。

知っている者だけが選ぶ権利を持つのです。

最後脱線しましたが、今回も読んでいただきありがとうございました!

Shingo

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