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生い立ちについて語る 幼少期

ずっと書き始めようと思ってたのになかなか書き出せず。

というのも、毒親の話といっても私にとっては自分が生まれ育った家庭で、それが普通だった(とは思っていないこともたくさんあったけど我が家ではそうなんだと受け入れざるを得なかった)ので、自分にとっての当たり前の生活を文章にまとめるのってめっちゃ難しい。ので、最初は印象的な出来事から書いていって、あとからあのときあーだったこーだったってたくさん出てきてしまう感じがするんだけど、とりあえず思いつくことから書いていく。

前回母のエピソードで書いた通り、私が生まれたときおそらく母は人生で一番幸せだった。結婚して毒親(母の毒親なので私から見ると毒祖父母)から独立して、お金のある男の人と結婚して専業主婦。お買い物はデパートで、趣味はお庭のガーデニング。そんな中で私は生まれた。

難産だったためお前を産む時は辛かった明治時代なら死んでたと多分もう1万回くらいは聞かされた。「難産で辛くてもうなんでもいいです生まれてきてくれればと思ったらお前みたいなのが生まれてきた」、後に弟が生まれたあとは「弟はお前と比べてずっとずっと楽だった、生まれてくるところから孝行だった」も付け加えて。すいませんね、私も生まれてきたかったわけじゃないし、あなたを苦しませたかったわけでもないんですけど。

大事なのは言い方だと思うんですよ。「難産で大変だったけど健康に生まれてきてくれて良かった」「難産で辛かったけど会えたとき嬉しかった」もしそう言ってくれたら申し訳ないけど生まれてきて良かった。そう思えるのに、自分ではどうしようもないことをそんな風に言われるのが子供の頃から本当に辛かった。

「お前はおっぱいを飲むのが下手で本当に痛かった」母乳期間、「食べ物を指で弾いて床を大変なことにした」離乳期を経て成長していきます。(なんで聞いてもないのにいちいち人に罪悪感を感じさせるんだろう)

喋るようになってからは社交的で近所の人のアイドルだったらしい。近所のおじさんをお茶に誘ったり、近所のおばさま方にレンタルされてお祭りとかに連れて行かれたり。母から聞く私の可愛かったエピソードなんて2.3個だけ。買い物に連れてくとひっくり返ってものを欲しがって大変だったとか、他の子は歩いて帰るのにおんぶをせがんで大変だったとか…はい、すいませんね。

幼稚園ではおままごとは苦手、一日中ダンゴムシを捕まえてるような子供だった。女の子だから、とブランド物の可愛いワンピースを着せても帰ってくる時には野良仕事したおばさんみたいになって帰ってきたと母から今でも言われます。

自身の学歴コンプ故か、この頃にはすでに教育ママとなっていた母。親を「お父様、お母様」、祖父母を「おじいさま、おばあさま」と呼ばせる等しつけは厳しかったし私を私立小学校受験のための塾に通わせていた。もしそのまま家庭が平穏に維持されていれば、ただただ過干渉なだけの親になっていたのかもしれない。

最初の異変は幼稚園年中くらいの頃だと思う。父が失踪した。子供の頃のことだけど少し覚えている(話を聞きすぎて覚えている気になっているだけかもしれない)。母と二人で車で、船で、父を探した。

しばらくして父が見つかった。これくらいの時期に弟が生まれた気がする。なんでこんなときに子供作ったんだろう。でもまた程なくして父はいなくなった。様子がおかしいとは幼心ながらに感じていた。この頃、家には借金取りがしょっちゅう来てたらしい。

母が過ごしていた素敵な生活は嘘の上に成り立っていたものだったのだ。父は事業をしていて儲かっていると言っていたがそんなことはなく、大量の借金と自分の両親に資金援助をしてもらって生活を維持していたことが後になって分かる。

両親は離婚した。中卒の専業主婦だった母は父が作った借金と子供を2人抱えたシングルマザーになってしまった。私は名字が変わって、住んでいた家を出て、母方の実家に住むことになった。

夫の裏切り、借金、小さい子供2人、働かなきゃ、毒親とまた一緒に暮らさないといけない、幼稚園で根も葉もない噂を流されたり他の親御さんに攻撃されることもあったらしい。色んなストレスが母に襲い掛かった。

母は懸命に働いた。これは今に至るまで事実。その時々仕事は変わりつつも働いて私と弟を大学まで行かせてくれた。母自身が学歴にコンプレックスがあったからこそ、必ず自分の子供は大学まで出すと決めてそのために働いてくれた。女に学歴は不要などとは言わず、女だからこそ学歴と仕事を持つことが大事、自分のようにならないようにと育てた。そこは理解しているし感謝している。

ただ母は多くのストレスを抱え、その捌け口にアルコールに依存した。酔うと発狂したり祖父母に対して手をあげたりするようになった。毎晩怖かった。今日はどうか何も起こりませんようにと布団の中で願う日々をこの頃から過ごすようになった。

この頃一度だけ他人に助けを求めたのを覚えている。祖父母が母から暴力を振るわれているのを見るのが怖くて、幼稚園の先生に登園したときに泣きながら「助けて」と話した。でも先生は、家庭の問題に踏み込まないほうがいいと判断したのか、困ったように笑って私を撫でただけだった。このときの絶望感は半端じゃなかった。子供にとって幼稚園の先生は家庭以外の世界で唯一関わりのある大人、その大人が目の前で聞かなかったことにしたのだ。家で起こっている恐ろしいことは人に話すようなことじゃないんだ、助けてくれる大人は誰もいないんだと、この出来事以来私は外に助けを求めることをやめた。つい最近アラサーになって通っている心療内科の先生に25年越しに話すまで本当の家族のことを誰にも話さなかった。

また、この頃母は一度精神病院に入れられていたような記憶がある。多分、自殺しようとしたんだと思う。それか暴れまくったか。幼心ながらに母は自分のことを置いていってしまおうとしたんだなと思った記憶がある。子供だから本能的に母のことは好きだったけど、発狂したり暴れたり死のうとしたりする母のことがとても怖かった。

離婚して母方の苗字となり、母方の実家に移ったので母以外に祖父母がいたけれど、祖父母も毒だったし、その毒は私にも向けられた。特に祖母がひどくて、母のいないところでは私のことを〇〇公(〇〇には私の父方の苗字が入る。父の苗字が鈴木だったとしたら「おい、スズ公」って呼んでくる感じ。全国の鈴木さんごめんなさい。警察のことを悪い人たちがポリ公って呼んだ時代があるけど、そういう感じ。)と呼んで、お前はあの憎たらしい不細工の父親に良く似てると毒々しい顔で言われ、母や父の悪口を聞かされた。子供心ながらにそう呼ばれてることや悪口を言ってることを母に言ったら大変なことになるのが分かっていたから黙って耐えた。祖父は私を積極的に加害はしなかったけれど、助けてもくれなかった。(この件は正直大人になってからのほうがしんどかった。たった4、5歳の自分の孫によくそんなこと言えるなって、同じ人間だと思いたくないくらい絶望したし生理的に無理ってなった。)

そんなわけで、家には私が安心していられる居場所や家族はなかったし、外の世界にも頼れる大人がいなかった。昼間は信頼を失った幼稚園で時間を過ごして、幼稚園が終わったら祖母にいびられ、夜は母が暴れ出さないか怯える、そんな日々を過ごしながら成長していきました。


ぺたり







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