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(連載45)元ディーヴォのアランが自分のバンドに参加:ロサンゼルス在住アーティストの回顧録:2007年−2011年

ミュージシャンになりたくて、ギターが弾けないのに、ストラトキャスターを買って、自分のバンドをはじめた。

名前は

ジャンポール・ヤマモト〜〜っ!!


ジャンポール・ゴルティエヨージ・ヤマモトが、合体!!

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もしくは


ジャンポール・サルトル山本五十六が、結合!!

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もしくは

ジャンポール・ベルモンドと山本リンダが、一体化!!

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と。。。。

諸説はいろいろありますが、、、、



どれを選ぶ方はみなさまのお好きなようになさってください。

(ただ、長い名前なので、これ以降ジャンポールと、省略いたします)

さて、これは前回までのお話で、今回はこの続きであります。

タイトルにあるように、結論から言いましょう。


そうなんです。

あの、ディーヴォ!


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そのドラマーだったのアラン・マイヤース様ですよ!


彼が、なんでまた私のような、「素人」バンドに参加するようになったのか?今回はその経緯を、いつものように、必要以上に詳しくご紹介しようと思います。

「ディーヴォ」とは、若い方はご存知ないかもしれませんが、1970年代の終わりから80年代はじめ、日本では昭和のバブルがはじまりかけてた頃、そして、我々が(若い方からしたら、ご両親が)20代の頃、世界のポップ市場にて、大ブレイクしたアメリカのバンドです。

一連のパンクの後のニュー・ウェイブっていう音楽の流れでした。

パンクっぽいシンプルでビートの効いた音に、ポップでスタイリッシュなビジュアル!!

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そして、アーティ(アートっぽい)なコンセプト

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ブライアン・イーノがプロデュースして、一躍注目され、その後の影響力は計り知れないです。ちなみにウィキってみましたら、触発された人々は、日本だとムーンライダースからP-Modelからイエローマジックオーケストラから電気グルーブから遠藤ミチロウさんから布袋さんから。。。。まあ、スゴいですよー。

彼らは一旦ブレイクしてから、90代になって下火になりましたが、今でも続いてて、ツアーしてます。

が。

我らがアランは、最初のピークかおさまった頃に、さっさとディーヴォを去っておりました。


そういうディーヴォのブレイクからあっという間に20年程経過した、2005年の終わる頃でありました。。。。。



さて、ここからが、ドラマのはじまりであります!!

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ある日、私が家の庭に取り付ける照明の電気工事をやってくれる人を探してたんです。そして何気なく、友達に「誰か知ってる?」きいたら、

「いい人がいるから、紹介するよ」と、いわれました。


そして、やってきたのが、


あの、アラン・マイヤースだったのです!!!



つまり彼はロサンゼルスにいて、なんとっ!電気屋になっていた!!

彼の中で何があったかは、知るすべもありませんが、

人気ポップバンドをやめて、電気屋になるなんて、あたくしのレベルからしたら、もう、土下座級のリスペクトしかありません!!!


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クールの極み!!



あのディーヴォだった人が家に来るかと思うと、もうドキドキしました。

そして、その日。

彼は古い70年代のミニバンとともにやってきた。。。。。

でもその目的はあくまで電気工事です。

現れた彼は寡黙な印象で、必要以外の事は、まったく何も喋りませんでした。。。。

「俺に何もきくなオーラ」が、背中からガンガン出てた。。。。

なので、私も空気を読んで何も言わず、そして何食わぬ顔をして、事をなしてもらった。その工事は1日で終わる仕事ではなかったので、彼は次の日も次の日も来たが、作業が終わったらさっさと帰っていった、、、、。


そしてついに工事の最終日、前作業の工程が終了して、「お疲れ様〜」という直前に、、、、


自分「あのーーー。」って。

もう、今しかない。最初で最後のチャンスだ!

「私、音楽やっててぇ。。。。。。」って控えめにきり出した。

そしたら、

「あ、うん。わかってましたよ。家の中にアンプとかあるし。」

と、言った。

「ああ、でー、あの、アタシ、ディーヴのファンだったんですよ。」

って言ったら、


ちょっとニコッとした。。。。ほんの、ちょっとだけ。。。。


それで、私は安心して、

「あの、、、ワタシは1980年のニューヨークのハロウィンのライブ、ラジオシティで見ましたーっ!!」


と、そこまで一気に早口で言った。。。。緊張してたんで。

もう彼がドアをあけて出る寸前でした。


そしたら、今度は、振り返って、ものすごい大きいスマイルで。

「あれは良かったね〜〜!」って言ったんです!


それで一気に私も緊張がほぐれて、「今でも音楽やってるですか?」と聞いたら、メディテーションのドラムをやっていると。

もともと、アランはジャズのドラマーだったので、それも納得できた。

で、この機会をのがしたら。。。と、私は、「あの、私のバンドの音源を聞いてもらって、アドバイズとかあったら、言ってほしいのですが。」頼んでみた。そしたら、彼は、「ああ、いいけど。。。。」と、会話の流れで言ってくれた。

ドアの前の立ち話ではあったが。。。そのついでに、私は、たたみかけるように、それまで自分のやってた事、つまり音楽だけじゃなくて、アートっていうか(汗)汚れたのシャツの襟の絵を書いたり、それで服を作ったり、コンセプチュアルなファッションショーをやってる事も、伝えてみた。

そしたら、音楽よりもそちらの方に、興味をもってくれたようであった。

その証拠に、、、、その数日後、私のコンセプチュアルな作品、汚れの首輪で作った服をディスプレイしている、お店にまで、服を見に来てくれたんですよ!!これはほんとに、感激でした!


それでちょっと自信が持てたワタシは、もらった奨学金で「汚れの首輪のファッションショー」をやらねばならないミッションがあったので、(この奨学金で、真っ先にまずギターを買っていたのであった。汗)

アランにこのファッションショーの計画を話して、ショーの音楽のバックトラックに、「即興で、なんでもいいから、叩きものの音を、ライブでいれてくれないか?」と頼んだら、

なんと!

オッケーしてくれたのです!!!


もともと曲数の少ない私は、ショー用の打ち込みの音楽と言っても、ほとんどがジャンポールの曲のリズムトラックをコピペしたもの。でも一応事前にそれをアランに渡し、

リハとかそんなん全くなしで、おまかせでコースで!オードブルから、デザートまでをお願いした。

それも無料で!(苦笑)

そしたら、ショーの当日、いろいろな叩きものを持ってきて、フレーバーを加えてくれ、ライブ感抜群のショーの音楽になりました。この時のことはのちにまたお話しいたします。


また、この他に彼とやったコラボは、これも、またすごく濃い内容なので、後日また改めて話ますが、軽くおさえときますと。

オノヨーコさんの(本人には全く関係のなく行った)トリビュートのイベントがあったので、私は彼女「ウォーキング・オン・シン・アイス」のカバーを歌いました。

カバーなんで、自分なりの打ち込み音源を作って、それをですね、

これでもかーっと、20分間ノンストップで、

何度も何度も繰り返し歌い続け、アランにもノンストップでドラムをたたいてもらいました。

つまり私は途切れることなくずーーーーーっと同じ曲を歌い続け、アランは途切れることなくズーーーっとドラムを叩き続けました。

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この2回のイベントとも大成功だったので、アランとの繋がり、

そんな流れで、ついに、「お食事でもどうですか?」って誘ってみた。

もともと夫のトッシュとディーヴォのメンバーのマークは、知り合いだったので、当時の薄ーい共通知り合いもいなくはなかったので、無口な彼と食事をしても、話題がまったくない、、、というわけでもなかった。

しかし実際は、彼はディーボ時代のことはまったく語りたがらなかった。ハリウッドや、音楽業界にもまったく興味がないと言い切った。(さすがです!!)

自分の昔のことよりも、今のことを話したい、といった。(まさに!)

それで、結局、そのディナーのメインの話題は、なんと私のバンド、ジャンポールへのアドバイズ一色であったのです!!これには、驚きましたね。

ディーヴォのドラマーが私の事を真剣に考えてくれてるというだけで、あまりにも驚いて、興奮して、実際、どんなアドバイズをもらったのかは、まったく覚えていませんでしたー。苦笑 なさけねえー。

で、その日の夜、家に帰ってから、夫のトッシュに、もしかしたら、アランはジャンポールのドラマーになってくれるかな???って聞いたら。

「多分、、、そうなるような気がする。」って言った。

で、その数日後に、アランに聞いてみた。

「ジャンポールのドラマーをやってくれる?」って。

そしたら、

答えは「イエス」!!

だったのですよ。

それで、前回にお話した、日本人3人の女性フロント計画に、ギターのシンさん、そしてアランのドラムで、ジャンポール・ヤマモトのメンバーがついにフィックスされて、バンドとしては、最高にベストなフェーズを迎える事になったんです!!!パチパチパチ!!!!

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すでに、ここまでくるのに、ギターを買ってから、すでに2年が経過、つまり、アタクシ、50代になっておりましたーーー。

ってか、もう当時は自分がいくつか?なんて、もうすっかり、忘れておりましたし〜〜。だは〜〜〜〜。 苦笑


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それからは、もうただ、一直線に進みました。彼から言われて、みんなでちゃんと集まって定期的にリハーサルもやるようになりました。

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「時間をそそいだものは、いいものができる」と彼は言っていました。

また音の表現を言葉にする事ができなかった私は、シンさんとアランの会話から音に関してのボキャブラリーをたくさん学べました。

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もう、いきなり、ジャンポールの音楽性が上がりました(と思います)

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シンさんのテクニカルなギターも異彩をはなちました。私が思うイメージを確実に再現してくれましたし、なにより音の奥行きを与えてくれた。

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短いビデオを見た人などは、ギターが素晴らしいのに驚いて、「ルンナ、ギターうまくなったね〜。」って勘違いする人もいて、笑。

私はギターは全く上達せず、相変わらずの5個くらいのコードをかき鳴らすだけでした。爆笑

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それから4年の間に、ローカルのクラブでたくさんのライブをこなしました。ひとつ気を使ってたのは、ライブのプロモーションをする時は、ディーヴォという言葉は使わないようにしました。アランが嫌がる思ったのです。

今回のこの回顧録のように、

あのディーヴォのアラン・マイヤーズがジャンポールのドラマーに!!

というのは、極力さけました。

しかし、結局は静かにひそひそと噂は広まっていたのでしょう。

ライブ会場でも、ジャンポールがアランのバンドだと思う人もいて、特にサウンド・ミックス担当の人などは、音のバランスなどを私にきかずにアランに聞いてましたー。(私もその方が助かったー。笑)

また、アランのファンの人がブッキングも助けてくれたり、応援してもらえるようになりました。

かくして、ついにバンドのアー写も撮り直しました。

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興味がある方は、是非、jeanpaul yamamotoで、検索してみてくださったら嬉しいです。動画もいくつか出てきます。

アクティブなこの4年間に、何回か、レコーディングしてアルバムを作ろうとしましたが、タイミングが合わなかったり、スタジオが見つからなかったり、なんといっても、財政的に余裕がなかったりで、なかなか思うように進みませんでした。

今から考えたら、本当に、本当に、本当に、後悔しています。

なぜなら。。。



アランが急に亡くなったんです。。。。。


体調が悪いと言い出して、どんどん痩せてしまって、理由を尋ねても「話たくない」と言いました。それで、私はそれ以上ききませんでしたので、結局は、亡くなってから、彼はガンになっていたと聞きました。そのショックはもう言葉にはできません。


これで、ジャンポールは、自然消滅したように終わりました。

私の中で、アランのいないジャンポールは考えられません。


4年間、正確には5年間で、パ〜っと頭上に咲いて、燃え尽きてしまった。

人間の命に限りがあるように、バンドもひとつの生命体だと学んだのもこの時期でした。

彼は本当に父親のような存在で、大きな愛をそそいでくれました。

今でも、アランには感謝の気持ちでいっぱいです。涙。涙。涙。涙。

 アラン・マイヤーズ 58歳 RIP

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次回に続く。

読んでくださって有難うございます。
ちなみにアランの事はこちらにも、書いています。よろしければ。
(自分メインですが。汗)

L*

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