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【短編】焼肉ペンギン

 友人、と表現したくもない、不快な男が、俺に声をかけてきた。いつもの如く、突然の電話で。
「今日、夕方の6時にT駅の改札口前に来てくれ。飲みに行きたいんだ」
 飲みの席、というものを楽しむ男だった。ヨダレの垂れる汚い口内を恥ずかしげもなく晒し、ガハガハ笑う男だった。
 しかし、その時の声に、まるで陽気さはなかった。ただ、根から陽気かと問われれば非常に微妙なラインの男であったから、それほど気にしなかった。

 にわかに暗くなってきた空に、電燈の明かりがじんわりとオレンジの模様をつくる。そんなポイントに目がいくほどには、退屈な待ち時間だった。
 普段は俺より早く待ち合わせ場所で構え、俺が着いた瞬間に、分かりもしない野球選手の情報を喋り出す男だった。その男から何十人もの選手名を聞いた。俺はもう覚えていない。非常につまらない話題だった。
 だが、今日はやけに待たせる。このまま帰ってしまおうか。小説が書きたいから、日記が書きたいから、映画を観たいから、本を読みたいから、そんな理由で飲みを断ったことが何度もある。待たせるなら、遠慮する理由もない。
 そう迷っていた時に、男は現れた。ここで「男」という表現を使い続けるのは、彼が死んでしまった今も、俺はそこまで彼に親近感を覚えていないからである。
 男は汗びっしょりで、俺に対して「悪い、悪い」と小さな声で言ってきた。
「いや、そんな待ってないから、気にすんなって」
 俺は親切に言ってやる。この見せかけの親切さが、自己嫌悪に陥る要素。毎度、人に「親切」にするたび、反省しているのだ。
「おい、飲みに行くぞ」
 飲みに行く、いやそういう約束だった、何もおかしい事は言っていない、この男。だけど、「どうした」と問いかけてしまいたくなる、この様子の奇妙さ。
 汗まみれなのは、9月で、まだ暑い季節だし、仕方ないのか。いや、こんなに代謝がよかったか。この男、「どうした」と声をかけずにはいられない。
 だが、俺が問いかける前に、彼はずんずんと歩いて行ってしまった。俺のことを置いて、T駅付近の踏切に向けて歩く。
 踏切を渡り切ったあたりで、茫然と立ち尽くす俺に気付き、男は「何やってるんだ!」と大声で怒鳴る。
 俺は先ほどまでの心配が、不機嫌に変わった。なんだ、心配をしてやっているんだぞ。俺の慈悲深さを男は何も分かっていなかったのだ。
 だから俺は、わざとゆっくり歩いて行った。踏切に到達する直前で、カンカンカンと音が鳴り始める。いたずらな笑顔で俺は立ち止まり、ゆっくりと降りてくる遮断桿が、俺と男の視線を一瞬遮る。
 ドラマの演出なら、この遮断桿が遮った瞬間に、表情が変わったりするだろう。残念、この男の表情に変化はない。
 相も変わらず、汗をダラダラ流して、何かにビクビク怯えるように、そして俺を心底心配そうに見ているのだ。
 俺はなんだか、たまらなく可笑しくなってしまった。誘われるたびに不快感を覚えていたが、今日のこいつはどこか面白い。
 なんというか、脆そうだ。俺の気まぐれで、どうにでもできそうだ。面倒を起こしたくないから親切心を纏っている俺だが、今日はそれだとつまらない気がした。
 見せてやりたい。本当に笑える姿だったんだ、その男。

 俺は上機嫌だった。
 早足で歩こうとするその男をつかまえて、「まぁまぁまぁ」って宥めて、焼肉を奢ってやるよと伝えた。
 俺が普段、ひたすら不機嫌な顔をしているから、その反動で嬉しくなってしまったのか。ビクビク震えて、焦りしかない表情だったのに、男は安心した様子で俺についてきた。
 焼肉。これは俺が世界で一番愛する食べ物だ。
 厳密に言えば、焼肉、という食べ物があるわけではない。焼肉屋、と呼ばれる店の中に、カルビやタン、ハラミ、ミノ、ハツなどの食べ物がある。しかし、それだけでは焼肉屋とは言えず、白い大盛りのライスや箸休めのサラダ、締めの冷麺や野菜スープなどの食べ物も並んでいなければならない。もちろん、ジンジャーエールは横に置いておかねばならない、絶対に。
 俺は上機嫌だったから、俺の好きな焼肉のメニューを男に振舞ってやろうと思った。俺の選ぶ通りに、俺が頼む順番通りに、肉や米、野菜を食えばいい。男は俺と同じように上機嫌になれるだろう。

 俺が白米の3杯目を注文するタイミングで、男は「ペンギンが追いかけてくるんだ、今もそこにいる」と言った。
 そんなに可愛い話はない。俺はペンギンが、世界で最も可愛らしい動物であると思う。
「それは良かったな」
 俺は白米と一緒に、ジンジャーエールも追加注文した。ジンジャーエールは、甘い飲み物の中で、最も食事を邪魔しない。酒より、茶より、ジンジャーエール。これは間違いないことだ。
 俺は訳の分からない話を続けようとする男を黙らせ、ジンジャーエールの話をし始めた。ジンジャーエールの色を黄金色とも茶色とも表現できない事のもどかしさを語り、そのうえでジンジャーエールに光が乱反射した時の美しさは、どんな海よりも川よりも、どんな宝石よりもいいものだと言ってやった。
 男は急に怒り出した。
「お前には見えないのかよ、俺にはずっと見えるんだよ。大人の、80センチくらいの、大きなコウテイペンギンが家の前にも、職場にも、どこにでも追いかけてくるんだ」
 俺は急に怒り出した男を見て、普段とは比べ物にならないほど不快になった。普段はこいつが喋りすぎるから不快、今は俺の喋りを遮ったから不快。どうなっても不快なのだから、この男は本当にどうしようもない。
 俺は親切になってみることにした。
「それはちょっと変だな、怖いだろう」
 男は安心したような顔になった。可笑しい。
「変だろ、何をするわけでもないんだが、俺がどこに行くにしてもペンギンが追いかけてきて、じっと見てくるんだよ。見てくるって、別に目がどこにあるかよく分からねぇから、ただこっちに体を向けているだけなんだけどさ」
「1羽か?」
「今、7羽ぐらいいる。だんだん増えてきてるんだよ」
 怖いだろう、と言ってやりはしたが。
 なんで、そんなに不快なんだ。可愛いものじゃないか。ペンギンだぞ。地球の極地で呑気に2足で歩き、人間が来れば、「同じ2足歩行だ」と喜んで近付いてくるような愛らしい連中だ。
 そんなペンギンに都会で追いかけ回される。そんな幸せな、ありがたいシチュエーションはあるだろうか。
 俺はペンギンに追いかけられたら、ゆるみ切った安心感を覚えるだろう。このペンギンたちは、俺のことが好きでたまらない。ずっとついてくるのは、それの証左に違いない。そう思って、安心して日常を過ごせるに違いない。

 それ以降、俺は焼肉を男に食わせ続け、ついでに酒を飲ませてやった。男は、
「苦しい、苦しい」
と途中から言い始め、幸せな悲鳴だなと俺は笑った。そして更に、食わせ続けた。
 会計は驚くほど高額になってしまったが、何しろ俺は上機嫌だ。普段不快感しか撒き散らさない男に、俺の好きな焼肉を目いっぱい食わせてやった。
 不快感に対抗しようとせず、受け入れたうえで、予想もしない幸福を詰め込んでやった。
 男は変わらず、ペンギンを気にしているようだった。いや、ペンギンなんていないのだけれど、彼がちらちら後ろを気にしているから、きっとそこにペンギンがいるのだろうと思ったのだ。
 俺は笑った。そんなお前を見たことがない、本当に面白いな、まぁ笑わせてもらったお礼だと思って、今日は焼肉の夢でも見てくれよ、と伝えた。男はひたすら、
「苦しい、苦しい」
と言い続けていた。
 そうか、焼肉なんかもう見たくないってくらい食えたか。幸せ者め。俺はガハガハ笑った。口を大きく開けて笑った。

 俺はT駅の改札を通った。男もなぜか通った。
「どうしたんだよ、ここが最寄り駅だろ」
「泊めてくれ」
 なんだこいつ、俺が上機嫌だからって、そこまで気を許したと勘違いしているのか。馬鹿め。やっぱり、とことん、不快な奴だ。
「嫌に決まっているだろ、何いい気になっているんだ」
「ダメなんだ、焼肉でいくらか忘れられると思ったんだが、やっぱりいるんだ、ペンギンがいる」
 もう男は振り返らず、俺よりも早く歩いていく。俺は追いかける気も起きず、ゆっくり彼と同じ方向へ歩みを進める。
 駅のホーム、コンクリートは突然途切れ、崖のようになっており、その下は線路。
 電車は間もなくやってくる。
 男は黄色い点字ブロックの傍に立ち、俯いている。ペンギンを見たくないのだろう。
「おい」
 俺は男を呼んだ。
「本当に泊まる気じゃないだろうな」
「泊まる」
「焼肉食わせてやったんだぞ。そのうえで泊めてもほしいって、どんな我儘だ」
 男は俯いたまま、俺と会話を続ける。ホームには誰もいない。俺たちだけだ。
「泊まるったら泊まる」
「だから、焼肉を奢って」
「奢ってほしいなんて、言ってないだろ!」
 男は俺の方に体を向けて叫んだ。まだ俯いており、俺の方に顔は向けない。
 俺は不快になった。いや、それどころではない。
 俺がこれまで、この男と飲んでいる時に抱えてきた小さな不満が、全て記憶としてよみがえってきた。忌まわしい。
 この男は忌まわしい。気持ちが悪い。近くにいてほしくない。いなくなってほしい。
「なんだよ、それ」
「だいたい、食いたくないわ。なんだあの量、おかしいだろ。こっちは、こっちは必死に、怖いって、ペンギンが怖いって話してんだよ。それを全然喋らせねぇで、肉ばっか馬鹿みたいに詰め込みやがって、ふざけんな!俺は、俺はペンギンが怖いって」
 は?なんだ、こいつは。そもそも、お前と付き合いを続けてやった、俺の親切心をありがたく思え。そのうえでペンギンが追いかけてくる?なんだ、俺が感じてきた不快感より、断然マシだろう。
 ペンギンは可愛い生き物だ。天敵もおらず、のんびりおだやかに表現を闊歩する、チャーミングな生き物だ。
 しかも、焼肉で量が多くて、なんだ、文句を言うのか。腹いっぱい食えない人だって大勢いて、そのうえで焼肉で腹いっぱいにされて、それに「ふざけんな」だとクソがいい加減にしろよ。
 ペンギンは可愛いし、焼肉は美味い。そして親切にここまでお前と仲良くしてやって、不快だ不快だって思いながらも我慢してやった俺は、どうだ。「ありがとう」の一言でも出してみろ、その、汚い口の奥から、出してみろ。
 不快だ、
 気持ち悪い、
 礼儀も知らず、
 物のありがたみも分からず、
 自分の苦しみなんて小さいものなのに、
 それを自覚できず、うだうだ文句ばかり言う、
 お前みたいな奴が、不快で、不快で、不快でたまらなくて、もう、
 なんだか、醜悪な、お前が、






 死ねばいいって思えてきたよ。






 電車の近付いてくる音。緩まる気配もなく、激しい音共に近付いてくる。
 男は、ガタガタ震えていた。
 さっきまで威勢よく怒鳴っていたのに、いや、震えていたのは最初からか。
 男は俺の方を見ている。
 いや、もっと上を見ている。俺の背後、ペンギンか。
 いや、ペンギンを見るにしては視線が高い。
 なんだ、3メートル近くの何かを見上げている様子だった。
「なっお前、お前なんだ」
 男は俺に言った。いや、分からない。お前というのが、俺を指しているのか、そもそも後ろにいる「何か」を指しているのか。
「お前、なんだ、ペンギン...?なんだ、に、肉、肉か、いやなんだ、やめろ、やめろって、おい!やめてくれ、まっ」
 俺の背後で何かが動いた気がした。
 風の音、べらぼうに多い数の「何か」が、俺の左右を豪速で通り過ぎていく。見えない。焦げ臭い?いや、いい塩梅の焼けた、肉の臭いだ。
 嗅覚と肌の感覚が、断続的に俺を刺激し続けた。しかし、視界は変わらない。目の前の景色には、何も違和感がなかった。
 俺の目に映っていたのは、
「恐怖」という言葉をそのまま具現化したような男の顔、
絶叫し、
唾をまき散らす男の口、
そして、捻じ曲げられるかのように、
歪み、
何かに突き飛ばされたように、
よろめいた男の体、
そして、急行の電車の先頭に、
弾き飛ばされるかと思ったら、飲み込まれるかのように消えていった、溶けていった、男の体。

 おそらく、5年前くらいに、東京都内ではあるが都心から離れた場所で、21時ごろに人身事故が起こっているはずである。
 東京都内で人身事故など、俺たちはもう気に留めないかもしれない。
 情報のひとつとして、その死は都内の空気に溶け込み、何の違和感も生じさせずに、どこかへ流れていくのだろう。
 彼の死も、他人どころか、俺にすら忘れられている。
 死は悲しいことであり、嘆くべきことかもしれない。
 しかし、男はペンギンが怖いと喚き、焼肉に文句を言い、それ以前から俺の気分を少しづつ悪くしてきた。事実、
 俺は、男が死んでからの5年間、不快だと思う飲みの席を経験していないし、読書も執筆も映画鑑賞も、気ままに楽しみながら暮らすことができている。
 嘆くにしては、あまりに心地いい状況である。
 ただ、彼が電車に圧し潰される前に残した、「肉」と「ペンギン」という悲鳴。
 ペンギン、肉。彼を死に追いやった原因と、死を招き入れた引き金。
 男の死と、俺が愛してやまない生き物と食い物。
 男が俺に与え続けた不快感と、俺が快感を得るために触れる生き物と食い物。
 俺はこれらによって生み出される、ささやかな違和感を、「焼肉ペンギン」と名付けた。
 男のいない心地いい毎日に、「焼肉ペンギン」は静かに横たわっている。

友だちの話。モデルになりそうだから、文章にしてみた。

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