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(31日目)自己のマイノリティに気づく旅

人間の根幹はその個々のマイノリティにあると思う。

表層はしっかりと厚い壁があっても、その中には個々のマイノリティな部分が眠っており、みなは「普通であろう」と必死にそれを隠し、生きている。

ただ、その個々のマイノリティがふいに現れたとき、その人が急に輝いて見えることがある。マイノリティな部分は本当にその人のやわらかい部分で、それをさらけ出すという行為は身を切るほどの勇気と覚悟が必要になる。しかし、その勇気が、覚悟が、さらにそれらをまぶしく輝かせる。

まるで厚く覆っていた「普通」が影だったかのように。

影が濃ければ濃いほど、光はまぶしい。

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12月10日にsoarのイベント「回復」に参加してきたのでその感想を少し。

このイベントを通して、病気からの治癒、精神的なショックからの回復、人との関係性の再構築など、様々な人の回復のストーリーを聞くことができました。

そのなかでも、特に印象に残ったことがらを二つほど。

一つ目ははじめのプレゼンターである、東大最先端技術研究センター 熊谷先生の話。セッション名は「わたし」。

自ら障害があり当事者研究をされている熊谷先生の、その人生を通じて語られる自己の回復の物語は、豊かな語彙、深い研究、そしてユーモアにあふれ、5秒に1回くらい名言がばんばん飛び出してもうすごいことになっていました。(主に私の脳内が)

僕が今まで言語化できなかったことを論理的かつ高次元に言語化してもらうという体験は何よりも得がたいもので、言葉が自分自身の腹のそこに静かに積もっていく感覚(実際はどかどかとテトリスのようだった!が)にどっぷり浸るような、そんな不思議な時間を体験できました。

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二つ目はある参加者(お名前は伏せさせていただきます)の勇気の話。

その方は、画期的な老人ホームを経営されている経営者のセッションの質問に、自分自身がセクシャルマイノリティ(LGBT)で、LGBTの方々が安心して終末を暮らせるようなホームが作れないかと質問されました。

これだけを聞いたら「おお、ええやん」で終わってしまうのですが、(実際プレゼンターもそのような反応でした)その方が語ったLGBTに対する世間の反応は私の想像を超えていました。

例えばLGBTが集まる場所を作ったとする。そうするとどうなると思いますか? きっと放火されると思います。
今もここでカミングアウトすることが怖くてたまらない。けれど、僕は散々考えた上でカミングアウトしたほうがいいと決めています。そういった施設を作るときは是非守ることを考えて欲しい

必死に声を上げて訴える彼を見て、なんと言うか、その勇気に、自分でもびっくりするくらい心を打たれました。ものすごく彼が輝いて見えたのが印象に残っています。(実際お話したら菩薩様のような笑顔でこちらが癒されました)

多様という言葉を使うことは簡単ですが、多く認識されている多様は本来の多様ではなく、ただの癖だったり、習慣だったり、そんなものが多いような気がします。もしくは、多様という言葉自体を軽く扱っているのかもしれません。

本来の多様の本質はその人のもっとエグく、やわらかい場所にあるもので、それがゆえに迫害、闘争、排除という極端な行為にさらされやすい。

当事者ほど今の多様という言葉が独り歩きしている社会に危惧しているのではないか、と改めて考えさせられた出来事でした。

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soarのみなさま、プレゼンターの方々、参加者の方々に改めてお礼を。とても素敵な会でした。ありがとうございました。

熊谷先生に紹介していただいた「平安の祈り」という詩を最後に。

神様、どうかお与えください/自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを/変えられるものを変える勇気を/その二つを見極める知恵を


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