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うまく書けたと思ったけど

昨日の記事は自分としてはそこそこユーモアが効いていてうまく書けたなと満足していたのだが、noteでのスキは0で全く伸びておらず、投稿後の共有ツイートも特に普段と変わりない反応だった。

こう、自信があっただけにショックが大きい。
面白いと思っているのは自分だけなのだろうか、傍から見たらサムい文章の羅列にしか見えていなかったりするのだろうか。それが一番恐ろしい。
面倒だとか書くことがないとか日々愚痴ってはいるが、こうして文章として思考をアウトプットするのは確実に私の習慣になっており、アイデンティティでもある。
それが評価されないとなると、流石に自尊心もいくらか傷つこうというものだ。

0から文章を書き始める人間が直面する問題として、「閲覧数が伸びないことによるモチベーションの低下」がある。
私がインターネットに文章を書き残し始めたのはもう何年も前だから、挫折は何度か経験してきたし、モチベーションが低下してもなんとかお茶を濁すことができるが、全くの初心者が文章を書くのをやめてしまうには十分な問題だ。
それに、現在の私が感じているように、頑張ったのに閲覧数が伸びないことから生じるストレスは、経験の長い作家や優秀な作家にも等しく蓄積し続ける。

私はプライドが高い方だから、自分よりも文章が下手だと感じる投稿者の記事が自分の記事よりも伸びているのを見て嫉妬心を感じることがしばしばある。
実際、私の文章力はどの程度のものなのだろうか。文章構成の定石だとか読み易く分かりやすい文章の書き方だとかは全く知らず、独学というか数をこなすことによってのみ経験を積んできた。結果として、私の文章が「読みにくい」「分かりづらい」「サムい」などの評価を受けるのは、遺憾ではあるものの妥当ではある。
さらにいうと、私は記事を投稿する際に、プロットを作ったり推敲を繰り返したりすることをあまりしない。稀に気合を入れてそういうことをしたりすることもあるが、基本的にはほとんど一発書きである。たまに気に入った記事を後から読み直してみて、気になった部分や誤字脱字を修正する程度だ(昨日の記事でもそれをした)。
こういった要因から、私の文章が「そもそも基礎がなってない」という状態になってしまっている可能性は低くない。
自分で読んでいて違和感を感じなくても、他人からしてそうでないとは限らない。


そして、閲覧数が伸びないという問題の原因としてもう一つ、「人脈や定期読者が少ない」「目に留まらない」というものがある。
これは文章力のあるなしよりもよっぽど根本的で重要な問題かもしれない。
noteの記事やブログなどの発信形態は、まず発見され認知されなければ読まれることすらない。
そのため、Twitterに共有する、検索で上位にでるように工夫する(専門用語でいうとSEO対策というやつだ)、タグを適量用いる、読んでもらえそうな人(もっというなら拡散してくれそうな人)と友達になる、などなど、色々な方法を使って我々は発見されるための努力をすることになる。
どれほど文章が巧みであろうが、それが路傍に捨てられているようであればだれも気に留めることはない。鳴り物入りでド派手な輿を担いで練り歩くくらいの努力をしてようやく、「文章が読まれる」というスタートラインに立つことが叶う。

私も自分にできる範囲でそうした努力をしているが、私の「できる範囲」というのは非常に小さい。
私はそもそも努力や我慢や勉強といったものが極めて苦手だから現在の境遇に甘んじているのだ。自分の好きなことにかける時間を減らしてまで、文章力を鍛えるだとか閲覧数を増やす工夫を学ぶだとかしたくないのである。
ライターには向いていない気質だ。しかし、ライターに向いていない気質は他の職業や生業にも悉く向いていないので、自分の取りうる最善の策としてライターをやっているわけなのである。

あと、閲覧数を増やす工夫の中で簡単な類のものに、「センセーショナルな話題について書く」「流行に乗ってみる」というのがある。
かつての私もそういった記事を書いたことがある。そして、私がはてなブログに投稿した記事の中で最もアクセス数を稼いでいるのは後者の「流行に乗ってみる」記事で、『ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド』の追加コンテンツが配信された直後の感想、『SEKIRO』のプレイ日記、スマホゲーム『メギド72』の攻略、当時連載中だった『ファイアパンチ』の考察などの記事が、被アクセス数のほとんどを占めている。
要するに多くの人々が関心を持っていることについて書くのが、記事の閲覧数を増やす最も容易な手段だと言える。
文章力云々が効果を発揮するのは多くの閲覧数という前提があってからの話だ。
多くの人に認知されてから、ようやく文章力が発揮される領域、つまり定期読者の獲得やバズりなどに到達しうるわけだ。

先に書いたように、かつての私はそうした記事を書いていた。
しかし、今の私は滅多にそんなことをしない。何故なら疲れるからである。
日々流行にアンテナを張り、プロットを書き、目に留まるような言葉を選び、推敲し、SEO対策をする。もはや私にはそれらの努力をする体力気力がないのだ。

無論、noteを開設してからそういった記事を全く書かなかったわけではない。私だってたまにはやる気を出すこともある。
しかしそれでも思ったように閲覧数は伸びない。
これは私の勝手な憶測だが、数年間全く文章を書かない期間があったことによって、文章力自体の低下はもちろんのこと、「コンテンツとしての私」の価値が大幅に下がったのではないだろうか。
かつては学生仲間の間でちやほやされていたが、彼ら彼女らは今や社会人で、私はニート。おまけに数年間の断絶もある。私というコンテンツを消費する人間が減るのは妥当なことだ。
この状況をどうにかするには、新しい人脈の開拓をしなければならない。私のことを「面白い奴」だと認識し、わざわざTwitterのリンクを踏んでこの記事を読み、あわよくばそれを拡散し、感想を言ってくれるような人と出会うのが、最も効果的かつ最も私の精神に優しい手段だ。

要するに私はまだちやほやされたいのである。生活保護で衣食住に文化的な生活を保障されたとしても、過剰な承認欲求は未だ満たされていない。
我ながら難儀な性格をしている。いっそ書くことをやめてしまえばいいのにと思うが、この習慣は一応「社会復帰への努力の一つ」という建前でやっているため、気軽にやめてしまうのも気が引ける。
それに、なんだかんだ私には発信することが必要なのだ。Twitterもブログも使わなかった数年間は本当に苦しい思いをした。適度に自分の存在を叫ばなければ、私は生きている実感を失ってしまう。

ジレンマである。書けば苦しい、書かないのも苦しい。生きるというのはこういうことばかりだ。

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