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カーテンを閉める

ここ最近、Discordをまた使い始めた。
確か大学を辞めて間もないころに、インターネット上での人との繋がりが欲しかったのと、ゲームの最新情報を共有しているサーバーに参加して情報を拾っておきたかったのとが理由で使っていたはずだ。
そして、いつの間にか、というには少し短すぎる期間で、私はDiscordを使うのをやめた。
それ以来ずっと使っていなかったが、最近始めたMMORPGの影響で私はDiscordのアカウントを掘り起こし、また使うようになったのだ。

最初はそのゲームの公式サーバーと非公式サーバーに入っているだけだったが、せっかくだからと思って他にも交友を広めようとした。
ディスボードという、Discordのサーバーをタグ検索できるサイトがあって、そこで私が楽しめそうなコミュニティを探してみたのだ。
それは例えばニートのコミュニティだったり、ブロガーのコミュニティだったりする。
これらに参加することで、私は自らの孤独を慰めようとしたわけだ。

果たしてその試みは一定の成功を得た。
日頃からほとんど口を開かないし人の話も聞かないせいで全然刺激を受けていなかった脳の部位が活性化するのを感じたし、境遇を近しくする知らない人と話すのは少なからぬ楽しみを私にもたらした。

しかし、そういった試みを始めて一週間も経たないうちに、私はある事実に気づく。恐らくは「いつの間にか、というには少し短すぎる期間で、私はDiscordを使うのをやめた」というのも、この事実を自覚したことに起因するものに違いないだろうと思う。

その事実というのは、私は他人との接触をそれほど積極的に求めてはいない、ということだ。
孤独を慰めるという目的で始めたものの、私がその目的を達成できる許容範囲は非常に狭く、他人との接触を続けていると、容易に孤独を超え健常を超え、あっという間に煩わしさや疎外感の領域に達してしまうのだった。
もちろんこれは私が所属したコミュニティに問題があるわけではない。私は恐らくどこへ行ってもこうした状態になりやすい性質なのだ。
私がニートという現状に陥り腰を落ち着けているのも、この性質が影響している部分が少なからずあるだろう。

私は友達が欲しいと思っている。これは紛れもない私の本音だろう。
私と趣味を共有し、異なる視座を持ち、時に相語らい、信頼のおけるような友人。そういったものを私が欲しているのは間違いない。
しかしその一方で、私の心は友達を欲していない、必要ないと感じているのもまた事実だ。
ヤマアラシのジレンマ、という言葉はこういったケースも含んでいるのだろうか。
そうだとしたら、ヤマアラシに例えられた私は、余程極端な棘の生え方をしているに違いない。単に長い棘をもつというだけでなく、長い棘が数本だけ、他人を突き放すようにして生えている。この状態で凍えないようにするのは至難の業だろう。

孤独に凍え続けるには限界というものがある。
こうして記事を書いて発信するのも、私が凍えないように他人との接触を図る一つの手段だ。
少し前、なにも発信せずなにも受信しない、生ける屍のような暮らしをしている時期があったが、あのころは本当に辛かった。本物の孤独は私からありとあらゆる活力を奪い、緩やかな死を眼前に据え続けた。

今ではこうしてものを書いてときどき人と交流をする分、あの頃よりも格段にマシである。
時々ちょうどいい距離を測りかねるときもあるが、それでもまだ生きている実感がある。
これで十分だ。最高の状態ではないだろうが、ここは十分に暖かい。

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