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私の若さに同情しないで

私はうつ病のために生活保護を受けている、今年で26になる男である。
この記事を読んでいる人からみて26という年齢が若いかどうかは考えても意味がないので置いておくとして、生活保護を受給している人々の中では恐らく若く、珍しいうちに入るだろうと思う。

近頃生活保護のケースワーカーさん以外の人、生活困窮者の支援をしている人と関わる機会があった。
その人と関わり始めて一か月と経っていないが、明らかに私にかける頻度の多い言葉がある。

「まだお若いので」というのがそれだ。
「まだお若いので可能性は沢山ある」だとか「まだお若いので今の境遇に甘んじているのは勿体ない」だとかが主な意図だったと思う。
これは「若いのになにやってんだ」という叱責ともとれる言葉だが、論調と体裁から素直に文字通り受け取っておくことにする。

もちろんこれを言われるのは初めてのことではない。最近妙に言われるなぁと思うきっかけがあっただけで、ケースワーカーさんにも何度も言われているセリフである。

ありふれた励まし、ありふれた同情なのだろう、と思う。二十代半ばにして生活に困窮している者に対してかける言葉として、不自然な点は全くない。道理である。

しかし、言われた側からすればこれは結構な負担になる。
先に挙げたもう一つの可能性、すなわち叱責としてこの言葉を使われているのだとすれば、苦しいながらも「そりゃそうだな」と納得できるのだが、この言葉で励まされると腑に落ちないものがある。
「うつ病の人に「頑張れ」と言ってはいけない」というのは擦り切れに擦り切れた定説だが、この「若いんだから」云々と言うのはこの「頑張れ」というのと全く同じことをしているのだ。諦めるなと、頑張れと、お前には可能性があると。

やめてほしい、というのが正直なところだ。
言わんとすることが妥当なのは分かる。まだ若いというのも分かるし、若い人間にかける言葉が諦めるなだとか可能性があるだとかだというのも理解できる。
しかし理解できることと心情としてそれを飲み込めるか否かは別の話だ。私はとてもではないが受け入れられない。
そう励まされて、そう同情されて、「言われてみればそうだな、よぉし頑張ろう!」となるような人格ならば生活保護の世話にはなっていないのである。

「人様の血税を貪っておいて何を偉そうに」という叱責もまた妥当なところだ。そして、受け入れられる妥当さだ。悲しく、無力感に苛まれはするが理屈は分かるし同意もできる。そういった人々が「だからもっと頑張れ」というのも、まぁ、それはそうなるだろうという感じだ。
しかし私を庇護してくれている人々から「まだ若いんだよ」と言われると、やはり飲み込めない。
言ってしまうが、私は私が今後の人生で真っ当に社会復帰するのをほとんど諦めている。少なくとも今の時点で、私が健康に、ないしは不健康なりに社会の一員となっている様を全く想像できない。私は落伍者なのだ。自らに落伍者の烙印を押すことでそれを免罪符としている卑怯者なのだ。
そこに、「可能性がある」と言われても、無理解を実感してしまうだけである。言葉をかけてくれる人は全く悪くないし間違っていないのに、私がどういう人間なのかを理解してもらえていない。

とはいえ、それは当然の話だ。
私が「社会復帰をするつもりはありません」などと自らの本性を晒してしまえば、生活保護の受給資格を失うことになりかねない。
そうなれば私は生存できない。「毎日ブログを書いているんです」などと「努力はしているんですよ」といった態度を取りつつ、「若いんだから」という言葉についてはなんとか躱していくしかない。
卑怯者の生き方だ。しかし不正ではないはずである。このような卑怯を働かなければ生きていけないのは事実だからだ。文章を書いているとそうでないように見えるかもしれないが、私は普通の人々と比べて脆い精神を持つ人間なのだ。

こうして、今日も「頑張り」を欺瞞するためにブログを書いている。「ブログを毎日書いている」と伝えると「すごい」と言われるが、それが社会復帰の何の役に立つというのか。私はただ免罪符が欲しいだけだ。
どんなに内容が薄かろうと、「若いんだから」と言われなくなる程度に老いるまでは、私はこれを続けなければならない。
私には社会復帰を試みる義務があるのだ。如何にそれが無為であろうと。

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