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カーネーション

あの年の8月に、父が癌であっという間に死んじゃって。
夏の暑さと環境の変化に呆然としてたら、あれよあれよと年が明け、春がきた。


僕は11歳になった。


4月は家族が一人減ったことを時々イベントで強調してきて、小学校の行事のたんびに「いや別に普通だよ」と言う顔を努めてしてたら、理由もなく時々流れてた涙は出なくなったけど、僕が何だか普通に見えるから、ちょっと気を遣ってた周りも日常に戻り、母だけがたまに薄暗い台所で洗い物をしながら、なんとも言えない様な顔をしていた。

楽しいことが何にもなくなって、これから先も多分ないだろう、と言うような顔。


夜になって祖父母が自室に帰り、弟がとっくに寝て、僕が引戸の隙間から覗いてるとは知らない母の、昼間とは違うホントの顔を隠れて見てる時間は、大人になったような誇らしさの上を悲しさとか不安が行ったり来たりしていて、何となくむず痒い変な感覚だった。


と、当時思っていたわけではない。


僕は6年生で、自分の整理のつかない感情をきちんと言葉にするよりも、野球やビックリマンシールやスイミングクラブをどうやってサボるかに忙しかったので「なんとなく嫌な感じ」のする毎日を、ただ当たり前に過ごすことしか出来なかった。

僕が薄情なのか人間とはそもそもそんなもんなのかは知らないけど、普通に過ごしていた毎日は、気付かない間にちゃんとまっさらな普通に戻っていて、晩御飯のちゃぶ台にひと席分空いてた場所には、象印のポットがお盆に乗せて置かれていた。


端がちょっと欠けた皿を使い続けるような毎日は、欠けた部分で指を切らない様に意識しながら、それでもテレビを見て笑い2軍のピッチャーをつとめ、スイミングクラブをたまにサボる僕にはもう「普通」だった。


5月にカーネーションを買おうと思った理由は、どうしても思い出せない。


母の日は我が家ではメジャーなイベントではなく、そのすぐ前後に僕の誕生日があった。

父の居ない初めての誕生日に、母がどういう動きをするのか予想が出来なかった僕は、過剰なプレゼントを貰った場合に備えて、照れ隠しにあらかじめお返しを買っておこうとしたのかも知れない。

あるいは、ただええ格好しいだったか。

ひとつ言えるのは、その頃まだ、ふと暗い疲れたような顔を、弟が眠った後にだけ見せていた母への気遣いの様なものではなかったことで。

僕はただ生意気なばっかりで、そんなに優しい子供ではなかった。

エイトプラザと言うスーパーは、家から1キロばかりの場所にあって、そこに花屋さんが入っているのは知っていた。

歩道の無い田んぼの中の一本道。

所々アスファルトが剥がれ上がった道の先のスーパーに、ひとりで行ったことはなかったけど、母の日の夕方に突然向かったのは、やっぱりただの思い付きだったんじゃないかと今は思う。


路側帯を恐々歩き出すそばから、横をダンプが通りすぎる。
信号も何もない一本道に、車はもちろんおばちゃんが足をハの字にして走る原チャリですら、スピードに容赦はない。

何度か田んぼに落ちそうになりながら、やっと着いたエイトプラザの駐車場で、僕はびっしょりかいていた汗が乾くまで、緊張して店に入れなかった。


寒いくらいにエアコンの効いた店内のすみに、やっぱり花屋さんはあったんだけど、「母の日のフェア」と書かれた棚に並んだ綺麗な鉢は、当然ポケットの小銭で足りるようなものではなく。


ガッカリしながらも「まあそうだよな」と思いつつ振り返ったレジ前には、段ボールにマジックで書かれた「母の日」と言う文字と、セロファンに巻かれバケツに突っ込まれた一本売りのカーネーションがあった。


150円だったのは、はっきりと覚えている。


すっかり暗くなってしまった帰り道は、車がライトをつけてやって来る分、何だか逆に怖くはなかった。
すごいスピードでライトに追い抜かれながら、僕は早く母にカーネーションを渡したくて、少し小走りになりながら真っ暗な田んぼの中を急いだ。


花を渡すと言う気恥ずかしさは、驚くだろう母の顔を想像したら消えて、僕はもう本気で走っていた。


何十台目かのライトが僕を追い抜き、すぐ前で急に止まった。

慌てて立ち止まった僕の所まで車は少しバックして、助手席のガラスが下がる。

恐々覗き込んだ運転席には、驚いた顔じゃない、見たことが無いくらい怒った顔の母がいた。


「馬鹿じゃないのあんたは!黙っていなくなったら皆心配するでしょうが。じいちゃんも川の方探して貰ってるんよ。ばあちゃんはあちこち電話かけよるし。暗くなるまで帰らんで、なんばしよっとね!」



後部座席に座り、何にも言えなくなった僕のシャツの下には、手に持つのが恥ずかしくて隠していたカーネーションが、はっきりと折れてズボンのお腹の場所に挟まっていた。



遅くなった晩御飯を母とばあちゃんと無言で食べた後、やっと自転車でじいちゃんが戻ってきた。

何となくひとりで残っていた食卓に座ると、僕を叱ったことの無いじいちゃんは、ニコニコしたまま「暗くなる前には帰らんばね」とだけ言い、一升瓶の日本酒を湯呑みに注いで飲んだ。


じいちゃんは暫く黙って何杯か飲むと、もう真っ赤に染まった顔を象印のポットに向けて言った。


「お父さんのおらんくなって、お母さんにはもうお前たちしかおらん。じいちゃんとばあちゃんは他人だけん、もうお前たちしかおらんとたい。あんま心配ばかけるとあかんぞ。」


じいちゃんは、僕じゃなくてポットにそう言っている様に見えた。


さっきの母の剣幕にすっかりビビっていた僕は、ドアの外から「素振りしてくる」と声をかけて玄関を出た。


返事はなかった。



家の裏手を流れるドブ川前まで来て、やっとズボンに挟んだカーネーションを、そっと僕は取り出した。

くしゃくしゃになったセロファンの中で、カーネーションはやっぱりポッキリと折れ、ひしゃげて潰れていた。


セロファンを外し、ドブ川に投げる。


ネズミ色した川の水に、真っ赤なカーネーションがポツンと場違いで、僕はそれを素振り用のバットの先で完全に泥に沈めた。


それより他に、どうしたらいいかわからなかった。



あれから30年以上が経つけど、いまだにウチには母の日がない。
いつだったか、たまたま一緒に見てたテレビで母の日と言う言葉が出てきた時、母は「ウチには父の日はないけん、母の日もなかたい」といまいち理屈の通らない事を言っていた。

まあ、そう言うことにしたのだろう。


カーネーションを捨てた理由は、今なら何となくわかる。


当時まだ30代で、色んな事に手一杯だった母に、それが例え思い付きの好意だったとしても、普段と違う負担を僕はかけたくなかったのだと思う。

普通で当たり前の毎日を送ることは、あの時期僕らにとって強迫的に正義で、イレギュラーな事は全部負担だった。

それが例え、好意だったとしてもだ。




こないだ母と飲んだ時、ふと思い出して聞いてみた。
小学生の時、夜までひとりで帰らなかったことあったでしょ?覚えてる?と。

母は2本目の缶ビールを開けながら笑って言った。

「あったあったそんな事。ちょうど今くらいの時期たい。急におらんくなって近所にも姿の見えんし、じいちゃんは自転車で走って探しに行って、ばあちゃんは慌てて役所にまで電話ばかけて大変だったとばい。あたしが車で見つけたったい。農道ば走りよるあんたば。あれはなんばしよったつね一体。」


さあ、忘れたねー。

と、僕も3本目の缶ビールを開けた。

5月。連休の初日。


この時期急にこの話をしたからと言って、まさか来なかった母の日に結び付けるほど、母は察しの良い人ではない。

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