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屋上

 大学時代に付き合っていた彼女の家で起こった、少し不思議な出来事の話をしよう。
 軽音サークルに所属していた僕は、同年代のやつらとバンドを組み、麻雀とアルコールに明け暮れた毎日を過ごしていた。音楽は好きでも嫌いでも無かった。僕は地方から出てきて一人暮らしを始めたばかりで、知り合いのいない寂しさを埋めるため、誰かと一緒にいる居場所を求めた。季節ごとに開催される内輪のイベントには必ず参加し、中古で買ったテレキャスターを引っさげ、誰もが知ってる有名バンドのコピー曲を弾いていた。ぬるま湯にどっぷり浸かっていた。

 そんな遊んでばかりの生活費を稼ぐため、僕は大学の近くの喫茶店でバイトをするようになった。彼女はその店の常連で、はじめて会ったとき、紅茶を飲みながらグレッグ・イーガンを読んでいた。同い年で家も近かった僕らは、それからよく話をするようになり、その年の秋の暮れから付き合うようになった。

 彼女と僕とはお互い一人暮らしで、泊まったり泊まりに来たりを繰り返していた。彼女の住むマンションは、僕の家から徒歩5分ほどの大通り沿いに位置していた。築40年を超える3階建てのその家は、外観からは相当年季を感じる様相だったが、数年前にリフォームをしたらしく内装は新築そのものだった。
 そのマンションには、屋上も存在していた。屋上からは、お盆の時期になると「五山の送り火」がよく見えるらしい。大きく「大」と炎で灯された文字が浮き上がるその伝統行事は、この街の夏の風物詩だ。屋上からの送り火は迫力があると彼女は語っていた。僕は彼女と送り火を見たことは無い。彼女は僕が屋上に上ることを禁じていた。

 彼女の家を初めて訪ねたときのことだ。3階まで上ぼり、さらに上の階があることに気付いた僕は、彼女に「この上には何があるの」と尋ねた。彼女は「屋上がある。住人共用の洗濯機が置いてあるよ」と応えた。
「屋上?」彼女の言葉を僕は繰り返した。「このマンションには屋上がついているんだね」
「そうだよ。この街を一望できる。屋上がついてるのがそんなに珍しいの?」彼女はそう言って不思議そうな表情を浮かべた。彼女にとって屋上は、洗濯などで日常的に行く場所なのだろう。

 屋上自体は全然珍しくもないし、さほど興味も惹かれなかった。小中高と学校には屋上があり、何度か上ったこともある。しかし、マンションの屋上は、どこか学校とは違って特別な感じがした。家の中にいるのに外に出ることができるのだ。パブリックなようでプライベートな、閉鎖的なようで開放的なその空間に、僕は少し好奇心を持った。

「どんな場所なのか見てみたい。誰でも入れるの?」彼女に尋ねてみた。
 彼女は少し考える素振りを見せ、「誰でも入れるとは限らない」と応えた。
「屋上には鍵がかかっているの。防犯のためなんだろうね。鍵はこのマンションの入居者だったら全員持ってるよ。ここに引っ越してきたときに管理人から受け取るの。だから、私だったら屋上に入ることができる」と彼女は言葉を続けた。

「それなら君と一緒だったら屋上にのぼることはできるね」僕は言った。
「できるよ」彼女は応えた。「でも、私はあなたと一緒に屋上に行きたくはない」彼女は僕の眼をじっと見ながらそう言った。歯に絹着せない、普段よりはっきりとした意志のある口調だった。

「どうしてさ」僕は不満に思った。なにか屋上には秘密が隠されているのだろうか。
「ごめんなさいね。別にあなたのことが嫌いだとか、屋上になにか隠してるとかそういうわけじゃないの」彼女は続けた。
「ただあなたを屋上に連れて行くのが怖いの」

「怖い」僕は繰り返した。
「どうして怖いなんて思うの?」
「明確な理由はないの」彼女はぼかすように応えた。
「ただ屋上に行くと、あなたがどこか遠くに行ってしまいそうな予感がしてるの。もう決してあなたと会えなくなるような予感が」

 彼女の返答は正直よくわからないし、意味がわからなかった。予感だなんて、彼女は屋上を拠点にした宗教にでもハマってしまったんだろうか。彼女は堂々としつつも、少しくぐもった表情を浮かべていた。少し怖くなった僕は、屋上について話をするのを辞めた。

 それ以降、屋上の話は自然と避けるようになっていった。交際が長くなるにつれて彼女の家に行く頻度は増えたが、屋上に続く階段に足を踏み入れたことはなかった。それからまた月日が流れ、冬が春になり、季節は夏を迎えようとしていた。

 僕と彼女は近所の神社で開催される夏祭りに行く予定を立てていた。大きな神輿が神社や道路を練り歩き、出店もたくさん出るそこそこ規模の大きな祭りだ。彼女は機会の無かった浴衣を着れると言って、はしゃいでた。夏祭りの1ヶ月後には送り火も開催されるのだが、一緒に見ようという話はしなかった。

 夏祭り当日、僕は浴衣を着て下駄を履き、彼女の家に向かった。彼女の家から2人で神社に向かうつもりである。午後18時、インターホンを鳴らし、オートロックを開錠してもらって3階まで上る。彼女はまだ浴衣を着ている途中らしく、「ちょっと待ってて」と言われた。ふと、何気なく屋上の方を見てみた。

 屋上のドアは開いていた。風と共に生暖かい空気がマンションに入ってくる。ドア越しに見える夏の空は、鮮やかな橙黄色に染まっていた。僕はふいに、屋上に出てみたいという興味が湧いてきた。一歩、また一歩と屋上に向かう階段に足を置いていく。カラン、コロンと履いてる下駄の音が室内に響く。彼女はまだ浴衣に着替えていないらしい、部屋から出てくる気配は無かった。

 階段を上り終わり、僕は扉をくぐって屋上に出てみた。はじめて足を踏み入れた屋上からは、盆地となっているこの街がすみずみまで渡せるようだった。遠くの方から祭囃子の賑やかな音が、生暖かい風に乗って聞こえて来た。
 屋上では宗教団体による呪術行為も、UFOを呼ぶ儀式も行われていなかった。人の気配は全く無く、僕以外誰もいないようだ。周囲は鉄製の手すりで囲われていて、端の方には洗濯機や給水ポンプが設置されていた。地面はコンクリートで覆われていて、なんの変哲もない普通のマンションの屋上のようだった。中央に木製の椅子が1台置いてある以外は。

 屋上にあるその椅子は、小学校で生徒が座るような、合板と丸パイプで作られたシンプルなものだった。脚が固定されており、外に出したままの雨晒しの状態だったが、劣化した様子は全くない新品そのものだった。そんな傷ひとつない綺麗な椅子が、屋上の真ん中で斜陽に照らされていた。

 僕は椅子の存在に少し驚きつつ、その静物に向かって歩いていった。祭囃子の音が大きくなったような気がした。彼女は今どうしているのだろうか、浴衣にもう着替えたのだろうか。湿気ばんだ風が、僕の浴衣の袖をゆらゆらと揺らしていた。

 近くから見ても、そこにあるのは特に変わった様子もない、ただの椅子だった。思い切って触ってみた。木材のしっかりとした感触とともに、さっきまで誰かがこの椅子に座っていたかのような温かさを感じた。つい数分前まで誰かが座っていた質感が、実態として指先から伝ってきた。

 僕は急にとても怖くなっていた。太陽はもう完全に沈んでしまっていて、暗闇が街を包み込みはじめていた。祭囃子の音が不気味なほど近くで聞こえ、じとーっと汗ばんだ肌に生暖かい風がそよいでいた。街の方を見ると、お祭りの提灯がぼんやりと怪しく光っていた。

 その時、急に背中を誰かから見られている感覚が襲ってきた。思わず身震いをするような、嘲笑っているかのような視線だ。全身を鳥肌が駆け巡った。
 恐る恐る後ろを振り向くが、誰もいない。背後には住宅街と、その奥にそびえ立つ大きな山のみしかなかった。この山が送り火で使われる山なんだろう。「大」の文字が存在感を放っていた。

 僕はそのまま息を殺して、椅子から離れ、屋上から出ていった。階段を1階まで下り、そのまま一目散に家まで走った。途中で下駄の鼻緒が切れてしまっても、裸足になって走り続けた。途中でお祭りをやっている神社を通った。神社を囲む提灯のそばから、彼女がこっちを見ている気がしたが、振り向かなかった。家に着くと、浴衣のまま布団に潜り、震えていたら朝になっていた。彼女からの連絡は二度と来なかった。
 翌日、僕はバイト先の喫茶店を辞めた。僕は屋上からも彼女からも逃げたのだ。逃げないとおかしくなってしまいそうだった。

 あれから3年の月日が経ち、今年も夏がやってきた。彼女がどうしているのか僕は知らない。彼女はあの日、夏祭りに行ったのだろうか。送り火の日には、屋上の椅子に座り、この街を見下ろしているのだろうか。
 そんなことは僕にはわからない。しかし、今でも夏の生温い風が吹くと、あの屋上と彼女のことを思い出してしまう。