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難病なんて正直他人事だと思ってた

ある日突然「親が死ぬかもしれない」という恐怖に襲われるのは、これが2度目だった。

1度目は高校1年のとき。ある土曜日の午前中、母が救急搬送された。あれよあれよという間に意識がなくなり、なんだかよくわからないまま危篤になり、その日の夜に息を引き取った。まだ38歳だった。事故みたいな病気。何の予兆もなかったし、あまりに急展開すぎて正確に言えば「かもしれない」と思う余裕すらあまりなかった気もする。

そういう経緯もあって、私たち家族はほんの少しだけ「家族の突然の死」が身近にあったのかもしれない。救急隊員から私の携帯に「お父さんを救急搬送しています」と連絡があった時、私は真っ先に「死」を思い浮かべた。電話は救急車の中からだった。冷静に考えたら私の携帯番号を救急隊員が知るには父が教える以外にないのだが、飛び出しそうなほどの鼓動を抑え、私の口から出た一言目は「意識はあるんですか?」だった。

それは、なんの偶然なのか母の時と同じく11月のある土曜日の出来事。結びつけたくはないが思考が勝手に悪い方に傾いていく。

すぐに駆けつけたい気持ちを抑え、目の前の放り出せない仕事に集中した。心を落ち着かせるのに必死だったけれど、後になって思えば仕事のおかげで少し落ち着いていられたようにも思う。

途中、担当医から連絡があった。それは救命救急の先生だった。「急変の可能性があります。同意はご本人からもらい治療を開始しています」ん?どういうこと?急変の可能性と、本人の意識の程度が合致せず混乱状態。地元までは車で2時間半。何がなんだかわからないまま、「事故るな自分」とだけ言い聞かせて搬送先の病院に向かった。

救急隊から連絡をもらって5時間後、点滴に繋がれて初療室に横たわる父はびっくりするほど元気だった。いや、一番びっくりしているのは本人だった。「こんなに普通なのになぜ救急搬送?」これが父の感想だった。

担当医はちょっとボサボサなグレイヘアが「お医者さん」を容易にイメージさせる先生だった。初療室から病室に移動する時、訳の分からないこの状況をグレイ先生(とお呼びしよう)が説明してくださった。

「敗血症」「DIC」「血小板が通常の人の20分の1しかない」「脳出血で救命できない可能性も」「すぐに輸血」「感染症」…話を聞いてもやっぱり訳が分からない。

下痢が続いていた父は近医を受診。一度は風邪薬等で快方に向かうも再び悪化した。食欲がなく1日おにぎり1個くらいしか食べられないのに体重は増えていく。おかしいなと思っているとこの5日ほどで靴が入らないほど足がむくみ、倦怠感で歩くのがやっと。再度近医を受診し採血すると、CRPが異常に高く、血小板が異常に低いため、そのまま救急搬送となった、とのことだった。

血液の数値から敗血症と診断。それが急速に悪化してDICと呼ばれる出血傾向と血栓傾向を繰り返す状態に進んでいる。その原因は何かしらの感染症の疑いがあり、抗菌剤投与や輸血、血液浄化(透析)で全身を管理しつつ感染源を特定していく。

電子カルテを見せながらの説明を終えると、呆然とする私を見てグレイ先生が「今の説明を文書にしてお渡ししますね」と目の前でキーボードを打ち始めた。「カタカタ……カタカタカタ」なぜかある一つのキーを連打する音が度々聞こえる。状況が飲み込めずにボーっとしていたが、あまりの連打音にふと目をやると、グレイ先生、タッチタイピングが苦手のご様子。医療用語が正しく変換されないことに、文章を打ち終わってからじゃないと気づけなくて、BSキーを連打していた。

「見てはいけない」と瞬間的に思った。足元に視線を外しつつ、なんだかホッとした。グレイ先生には、病名が確定しないとても苦しい2週間すごくお世話になった。この出来事がなかったら、その苦しみを怒りでぶつけていたかもしれない。初対面ですっかり「憎めない人」の印象を植えつけ、しかも安堵感すら与えてくれるグレイ先生はすごい。

話は逸れたけど、これが当初の治療方針。そして経過をたどり、血液数値が悪い原因が感染症ではなく、TAFRO症候群という症例の少ない血液系の難病だと再診断されるのは、大学病院に転院後のことだった。

難病。ドラマや小説の世界の話だと思ってた。ノンフィクションで実際に難しい病気と闘っておられる方々の姿は知っていたが、まさか身近になんて思ってもみなかった。

父は未だ、自分の病名を知らないままERに入院している。当初は告知も考えたけれど、次々と襲ってくる辛さや痛み、苦しみを受け入れるので精一杯の父に、病名や難病だと伝えたところで何が変わるというのだろう…そう考えて今は父とともに毎日を積み重ねることに集中しようと決めた。

生まれて初めて入院する父。母の時はあっという間で看護をしたことがない娘。おまけに難病で、今のことも先のことも全くわからない。父とともにこの病と向き合う中で、何か学ばなければいけないことがあるんじゃないか?そう思って患者家族の立場から闘病記録を書いてみることにした。

Twitterと合わせて記録していく。スマホでサクッとしかも短い文章でいいって言うのが良き。

もうホントわからないことだらけなんだけど、とりあえずこれだけは言える。私は父が大好きで、家族が大好きで、まだずっと一緒にいたいと思っている。先のことは見当もつかないけど、今、一緒にいることはできる。

それをひとつひとつ、積み重ね、書き記し、残していくことが自分自身のため、そしてもしかしたら誰かのためになるかもしれないと思っている。


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