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波乱万丈な私の自己紹介

ポピー

生い立ち

ベレー帽

関西出身、ベレー帽の似合う子供でした。

いつも明るい、裏根暗女子。両親が不仲なあれです。

女癖が悪く、ちょくちょく家出する父に苦労させられた母は私が物心つく頃から

「将来は何か手に職をつけなはれ」

と言い、手に職ってなに?と思いながら育ちました。

幼稚園から中学校までは結構普通な感じ。中の上的な。

家は貧乏だったけれど、学校に行けば仲良しの友達がいて片想いの男の子の話しや悩みを打ち明けあったりしてキャピキャピしてたな。

高校2年生でいじめに合い、教室移動時やお弁当を食べる時も一人でした。

仮病を装い早退を繰り返しながら、中退したいとずっと考えていたのですが、温かい同級生から声をかけてもらい、仲間に入れてもらってからの高校生活は楽しかったです。

勉強が大嫌いだったので、大学に行く気はさらさらなく受験勉強に励む同級生を横目で見ながら模試でいい点数をとるという憎たらしいJK。

小学校1年生の時先生に

「将来何になりたいの?」

と聞かれ婦人警官か看護婦さんと答えていたのはすっかり忘れて、高校3年生の3月になっても私は進路を中々決められなくて先生を困らせました。

とりあえず事務で就職しろと、言われるがままに近所の会社に事務員として就職。

ここでも25歳の先輩からいじめを受ける。18歳からしたら7歳も年上の人は怖かったです。

いじめって、いじめられる側にも問題があるって言われているじゃないですか。だから私っていじめられやすい人だったのかな?

何も教わらないうちからアホ扱いされ、違う課から来た先輩に

「この子アホやねん、そっちへ連れて行ってくれへん?」

などと言われ、毎日泣いて帰りました。

辛いから辞めたいと両親に相談するも、父が中々許してくれなくて重い足を引きずり会社へ行っていました。3ヶ月経った頃、ようやく父も辞めることを納得してくれ退職。

あんまり毎日泣いて帰るので、母からもこっそり父に頼んでくれていたのかも知れないです。

一度決めて働きに行ったら、そう簡単に辞めてはいけないというのが多分戦前生まれのガンコ親父の考えだったんでしょうね。ちょくちょく女遊びしてる癖にそう言う所は父親っぽいことを言うという。

次の仕事を探していた時、クリニックの看護助手の求人を見つけ面白そうと言う理由だけで再就職。

先輩が怖がって避ける厳しい先生の診察に付かされ、怒られたくない気持ちからしっかり清潔不潔の操作ができるようになりました。

しばらくしてその厳しい先生に

「あんたは筋がいいからきちんと看護婦の資格を取りなさい。」

と言われ、母に相談してから大阪市内の病院の寮に入るまでがまあ早い展開で。母念願の手に職をつけに行く訳ですから期待されていたんでしょうね。

初めて親から離れて暮らすことになり、不安でいっぱいの寮生活が始まりました。

先輩と寮生活

寮は病院の3階にあり、6人の先輩がいました。

初日から「?」なことで怒られ、不安は更に大きく。

部屋を定期的にチェックされ、洗濯物の干しかたにもルールがあり守らないと注意されました。

両親が潔癖症だったので、私の潔癖症は寮で完全体になりました。

余談ですが、今はその潔癖症が幸いして、ミニマリスト並の物が少ない居心地のいい部屋で夫婦2人&トカゲ&カエルで過ごしています。

人見知りでしたが、職業柄そんなことは言っていられないのでいつの間にか人懐っこい性格になっていました。

なので、寮生活も慣れてくるととても楽しいものでした。

まあ、箸が転んでも可笑しい年頃というのもあり毎日笑って過ごせたのは幸せだったと思います。

看護学校時代

看護助手として入職した翌年に准看護学校を受験。

テストは散々でしたが、院長が医師会の偉いさんだったので少々点数が悪くても受かるらしく・・・・・・でも自力で受かったと信じたい!

午前中に仕事をして、お昼ご飯を食べたらチャリンコで看護学校へ。

看護学生時代はとても忙しく、夜勤の先輩が忙しくなると呼び出され仕事をさせられるので、毎日寝不足で学校へ着くと机に突っ伏して授業の最初の15分は爆睡していました。よだれと鼻水垂らして。

爆睡したあとは授業の内容がスルスルと頭に入るので、15分の爆睡はやめられなかったです。15分分の授業内容は隣の席の人にノートを見せてもらって凌ぎました。

一つ上の学年に同い年の寮の先輩がいて、成績がいいのでよく院長に褒められていたんですよ。

で、ちょっと負けん気が出て学年末試験で頑張ったところ、学年は違うけれど順位はほぼ同じくらいの成績をとることができ院長から褒められた上に、実家の両親に手紙まで書いてもらいました。

両親も喜んでくれてちょっとは親孝行ができたかな?

やがて週に2回だか3回の実習が始まりまりました。朝、診察の準備を済ませてから実習先の病院へ行き、終わったら病院に戻って夜診。

終わるのは20時過ぎです。実習は勉強なのでお金にはならないですが、実質13時間働いている感覚でかなりキツかったです。

何もかも投げ出したくなった時にALFEEに出会い、髙見澤さんの綺麗なお顔と三声コーラスの歌に元気をもらい辞めずに済みました。

今も、看護婦になれたのはALFEEさんのお陰だと思って感謝しています。元気をもらった曲をコンサートでやってくれるとウルウルします、今も。

戴帽式も終わり、憧れだったナースキャップをつけて仕事ができるように。

そして卒業式。

キツかった学生時代に終止符が打てると思うと嬉しくて、卒業式でニコニコしていたのですが

最後の校歌斉唱の時に同級生が泣いているのを見て、それまでの思い出が走馬灯のように蘇り気付けば私も号泣。

看護師

お礼奉公

まだ封建制度が色濃く残る病院だったので、看護学校を卒業してから1年はお礼奉公という名のお勤めの為、辞めることは許されませんでした。

が、既にALFEEの熱狂的なファンになっていたのでコンサートに行きたい。でも行ったら寮の門限に間に合わない。

そこで同級生と相談し、2人して寮を出たいと先生に懇願。

かなりの時間がかかりましたが、認めてもらい晴れて実家へ戻ることができました。

引っ越し

ALFEE追っかけ時代

1985年准看護師資格取得と同時に、鬱屈していた気持ちを解き放つように私はALFEEの髙見澤さんの追っかけになりました。

憧れの人の側に行けるなんて、本当に幸せな時間で青春でした。握手してもらったり、お手紙を渡したり。

いつも髙見澤さんは優しくて、手紙を渡すと必ず

「ありがとう」

と言って下さいました。

もっと本格的に追っかけをしたいと、両親を半年かけて説得し私は1987年12月に上京。(説得に時間がかかる両親)。

新幹線2

電撃結婚

追っかけを本格的にやろうと思って上京したものの、ライヴがない時期で追っかけは休止状態。1988年2月4日に仕事中の事故で緊急入院してきた人に一目惚れ。

ちょうどバレンタインデーがあったので、銀座の不二家で買った¥500のチョコを渡して告白。退院してから本格的にお付き合いし、5月に同棲を始め10月に結婚。

関西の友人から

「あんた何しに東京へ行ったん?」

と嫌味半分で言われましたが、友人もみな結婚適齢期。結婚したもん勝ちという時代だったな。

結婚式

妊娠と出産

初めての妊娠は流産に終わりましたが、その悲しみを乗り越え翌年妊娠。予定日ちょうどに出産。

誰に似たのか、産声が低音ボイスの元気な女の子。初めての育児に悪戦苦闘で、1ヶ月で14kg痩せました。

今までの人生の中で一番痩せていた頃。でも、母乳をやめたらまたズンズン太ってしまいました。

育児

うつ病発症

1993年に、パパの家族と同居することに。それと同時に、総合病院の手術室勤務と教習所通い。

その無理がたったのか、1997年にうつを発症してしまいました。うつだった1997年〜2010年の記憶はほとんどありません。

暗い部屋で電気もつけずただ天井を見つめて時間が過ぎていったという感じです。

唯一覚えているのは、小学生になった娘が学校から帰ると私が寝ている部屋に来てその日あった出来事を面白おかしく話してくれたことですね。

家族のためにも、私のためにも早く元気になりたいと思っていました。

無気力

作詞

毎日、娘とパパが帰って来るのを待つだけの日々。時間を持て余す私にパパが

「作詞でもしてみたら?」

と。

全く未知の世界で無理と思いながら、暇だからと一つ書いてみたらこれが見事にどハマり。何かに没頭すると、自分の気持ちと向き合えるんですね。

作詞の数が増える度に、心が軽くなっていきました。最近は中々書けず600曲で止まっていますが、せっかく10年続いたので何か形にしたいとは思っています。

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看護師復帰①いつの間にか看護婦が看護師に・・・

2010年の後半からそろそろ仕事を探そうと思えるまで回復し、近所のクリニックに就職。

木曜日以外は、午前診と午後診に出ていました。

5年勤務したのち、老健に転職。

点滴

ダイエット

うつと共に過食症も発症して、かなり太り服は着られないし身体は重いから動かないという悪循環。白衣も特注。

2013年に一念発起しダイエットを始めました。それまで目をそらしていた肥満体を何とかしないといけないと自分に合ったダイエット方法を調べました。

ウォーキングやジョギングなど外でやるダイエットは、ご近所さんにみられて恥ずかしいから家でできるダイエット方法を探しました。仕事の日にもできるもので。

「有酸素運動」「室内」で検索したら「踏み台昇降」というのがヒット。そこに、30分の半身浴をプラスして1年頑張りました。

そして1年でマイナス30kgを達成しました。服のサイズも変わりました。

ダイエット

変形性股関節症

老健で働き始めた2015年の年末くらいから右股関節に痛みを感じるようになりました。

次第に痛みが増すので整形外科を受診し、変形性股関節症と診断。多分「踏み台昇降」を身体が歪んだまま続けたからだと思います。

手術したくなかったので、股関節周りの筋肉を鍛えることに。

プールでウォーキングしたり泳いでリハビリしたのですが、改善しないので手術を決意。

手術室勤務経験があったので、全身麻酔は怖くて中々決意できずにいたのです。

2017年11月に、右股関節全置換術を受けました。全身麻酔なので、もしもの時のために遺書をスマホに打っておきました。無事帰還し、遺書は削除。

手術

看護師復帰②

股関節のリハビリが終わり、また看護師復帰。でも、臨床から離れていたのでまた老健に就職。股関節のことは面接時に話して承諾してもらいました。

承諾してもらっていたものの、自分で思っていたほど股関節は回復しておらず立ち仕事がかなり厳しいと感じるように。

その頃から、看護師の資格を活かした在宅での仕事はないかと思い始めました。探そうとしたのはもっと後ですが。

車椅子

コロナワクチン接種会場での出会い

コロナが流行り始め、ワクチンができたけれどどこのワクチン接種会場も看護師不足との情報にちょうど休職中だった私は、地元のワクチン接種会場で派遣単発の仕事をすることに。

1日約700人が訪れる会場で、問診業務に携わりました。問診は前半が看護師3人体制、後半が5人体制でした。

単純計算で看護師一人で問診166人です。持病もなくお薬も服用されていない方だと簡単に済ませられますが、その反対となると結構細かくお聞きするので毎日声がカスカスでした。

派遣単発の仕事なので、日によって一緒になる人が変わります。

何日かして出会った看護師さんが自宅でリンパマッサージのサロンをやっていて、暇な時に派遣単発の仕事をされていると聞いて

「これだ!」

と思い、休み時間にどんな風にされているのかをお聞きしました。頂いた名刺には、セラピスト看護師○○と書かれていました。

フリーランス看護師として働かれている方に出会えて、私の考えはまとまり始めました。

将来北海道へ移住したいと考えているので、拠点を自宅や現在住んでいる地域にすることはできません。なので場所や時間を選ばない仕事を探しました。

積丹の海

検索の結果、看護師ライターというのを見つけたのと同時に「医療ライター講座」を見つけ講座を受け医療Webライターとして活動することに決めました。

股関節の予後がイマイチよくないことと、年齢的な体力低下で立ち仕事が難しくなっていたので在宅でできる医療Webライターは希望通りの仕事です。

パソコン

まとめ

紆余曲折あり、今は医療Webライターとして稼げるように勉強中です。

講座の最終課題で1本の記事を書きましたが、自分の経験談も入れてしまったため、コラム要素の強い記事との添削を受けてしまい現在医療記事が書けるように軌道修正中。

コラムニストやエッセイストなんかもいいなとは思いますし、知らないうちにコラム的な記事を書いていたので医療記事が書けるようになったら様々な形で文章を書いていきたいと思います。

医療ライター講座でお勧めの本として紹介されていた5冊のうち、この2冊を購入しました。

本2
本

読書をしたらすぐに眠くなるんですが、頑張って読んで実践していきたいです。

以上、長くなりましたが自己紹介でした。






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