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いじめ。

中学に入学してから電車通学になった・・・といっても僅か二駅。徒歩で小学校に通っていた僕にとって、たった二駅の電車通学がオトナへの階段を一段登ったと感じた。

その理由は電車に乗ることではなく、定期と現金を毎日持ち歩くようになったことが理由だった。当然、人生ではじめて金銭感覚が目覚めた。

小学校のときはコミュニティーに属していると感じたことがなく、同じように中学に進学してからもコミュニティーに属していると感じたことはなかった。

でもいま想うと、中学の方が100倍その感覚はなかった。だから振り返ると、小学校のときはコミュニティーに属していたんだと、いまは感じる。

新興住宅街にあった小学校の友達は、いわゆる「お坊ちゃん、お嬢ちゃん」が多く、公立小学校ながら家庭環境は平均的だった。

でも競輪場や大きなショッピングモールが近くにある中学校では、家庭環境にはバラつきがあり、はじめて出会うタイプの人々に不安を感じていた。

中二になり、都会から転校生がやってきた。洋楽のこと、スポーツのこと、僕の知らないことを知っている彼に興味をもった。最寄駅が同じということで、いっしょに下校するようになった。

彼は一人っ子だった。両親は共働きで、夜遅くまでひとりということで、最寄駅の構内にある蕎麦屋で定食を食べてから帰宅をしていた。ひとり詰襟姿で蕎麦屋の暖簾を括る彼の背中を毎日見ていると、たまらなく可哀想に感じた。

彼とふたりで帰宅することに慣れてきたころ、土曜日だけは彼と一緒に蕎麦屋で昼飯を食べて帰宅するようになった。自宅に帰れば昼飯が用意されている僕にとって必要な昼飯ではなかったが、向き合って食べる時の嬉しそうな彼の表情に救われたキモチになった。生まれてはじめて人の役に立っていると・・・。

蕎麦屋からファーストフードへと次第にメニューの幅が広がった。ついに自分の小遣いでは土曜日の昼飯が食べれなくなり「お金がないから今日は昼飯を食べずに帰るね」と彼につげた。すると彼は「おごってあげるよ」といってくれた。

「ひとり蕎麦屋には戻りたくない」というキモチが彼の表情から感じられた。彼は僕との時間を大切にしてくれた。そのうちいっしょに登校するようにもなった。

それでも、いっしょに登校したり下校したりできない時もあった。僕は病弱な少年だったからだ。病気が理由で遅刻や、早退や、お休みをしたとき、彼はいつも不機嫌で、僕がいないことに不満を感じていた。

そのうち、罵声を浴びせたり、暴力を奮うようになり、いつの間にか「いじめ」の対象になっていた。

でも、いじめの理由が彼の孤独感からきていることを知っている僕は、彼の発する罵声や暴力に反発することはできなかった。学校中で彼が孤独なことを知っていたのは僕だけだった。

「自分の存在価値は彼の孤独感を癒すこと」と信じていた僕は、彼の発する罵声や暴力を受けることが一種の社会貢献とすら感じていたような気がする。いじめは日々エスカレートしていった。

中三になり進路を決める時期になった。病気を発症して入試が受けれなくとも次の学校を受けれる可能性が高くなるから、受験日の早い学校を志望校にした。

幸い自分が望む高校の受験日が早かったので志望校は簡単に決まった。一方の彼はトップクラスの成績だったので、都会の有名進学校に進むことになり、お互いに別々の道にすすむことになった。

そこから彼の罵声や暴力は、ますますエスカレートしていった・・・

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