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タイムカプセルのような国(2019年6月、北朝鮮🇰🇵平壌にて)

2019年6月末から7月頭にかけて、私は北朝鮮を9日間旅した。北朝鮮と聞くと、日本ではとかく良い印象のない国だが、社会主義という日本とは異なった国体はともかく、中国や韓国のような「近隣の国」として、かねてから関心のある国だった。東京からフライトで2-3時間という距離にありながら、容易には入国できない謎の国、それが北朝鮮だ。


どうやって北朝鮮へ?

そもそも北朝鮮へ行くにはどうすれば良いのか。いくつか方法があるが、外国人がまず最初に直面する問題はビザだ。北朝鮮ビザは、旅行代理店を経由して発行され、同時にパッケージツアーに参加する事となる為、北朝鮮を”自由”に旅する事はできない。北朝鮮滞在中は、旅行代理店によって手配された北朝鮮人ガイドのフォローの元、国内を回ることとなる。このガイドは英語、フランス語、ロシア語、中国語など世界各国の言葉を流暢に話せる方ばかりで、大概が外国語とツーリズムを専攻している国内の優秀な方ばかりだ。私は英語ガイドの引導するツアーに参加したが、北朝鮮滞在中には日本語を話すガイドにも偶然遭遇した。

北朝鮮への実際の入国の仕方は、空路と陸路の2種類がある。空路は中国の北京からのフライトで、北朝鮮国営のエアラインで、たった1時間で平壌まで到達する。陸路は中国国境あるいはロシア国境からの入国となる。後者は極東ロシア最大の都市ヴラジオストクから、北朝鮮の経済特区の羅先(ラソン)へ入るルートだ。私は前者で中国の遼寧省にある丹東という国境の街から入国した。丹東の駅に着くと、電光掲示板に「平壌」行きの電車が載っていて、いよいよ入国するのかーと高揚感に溢れる気持ちだ。

いざ入国

中国と北朝鮮を隔てる川、鴨緑江を渡るといきなり金日成と金正日の肖像画が高々と掲げられた新義州(シニジュ)の街に停車した。ここで乗客は荷物検査をされる。北朝鮮では、宗教に関する本が禁止されている他(恐らく思想統制の為?)、GPSの機能がついている端末の持込が禁止されている。今や、GPS機能が付いていない携帯などないので、建前上ついてないと回答する。荷物検査の担当の軍人は、よく報道で見るようなカーキ色の軍服を身に纏い、帽子は天井の広い独特な形のものを被っている。彼らはあまり外国人や外国語に慣れていない様で「コンピュウタァー!モバァイル!」とカタコトの横文字を言い放ち、我々に電子機器を含む全てを机上に出す様に指示した。彼らの態度は少し滑稽だったが、寧ろ親しみのあるものだった。まるで、都会の人に慣れていない田舎の老人の様な素振りを終始見せていた。

荷物検査の合間に、電車から降りることができたので、売り子からビールを買った。Made in 北朝鮮のビールで、味は他国のものと比べて遜色なかった。

列車が発車すると、ホームにいた軍人たちは一糸乱れず車両に向かって直立不動で敬礼をした。その様子は、歴史ドラマで見る様な戦時中の日本の軍隊にそっくりだと思った。

新義州から平壌までは、ずっと田舎っぽい風景が続いた。高い建物は少なく、旧ソ連にあったような無機質なデザイン性の少ない建物か、朝鮮の伝統的なスタイル?の瓦屋根と白い壁で出来た民家が、疎らに建っていた。それらは韓国のソウルで見た古い街並みが残っているとして有名な観光地、「北村八景(ブクチョンハノン)マウル」に似た印象があった。やはり、北朝鮮は韓国の片割れなのだ。

市内外の道は広いが、自動車は殆ど走っておらず、人々の移動手段は自転車か徒歩の様だった。この地方の人々の服装は非常にシンプルなもので、華美なオシャレをしている人はおらず、清貧という言葉が頭をよぎった。

農作業に従事している人が多く見られたが、農業用の機械を使わず、農夫が一つ一つ手作業で収穫や間引きをしていた。彼らは頭には頭巾を被って、文字通り汗水垂らしながら、肉体労働をしていた。

車窓から見たこれらの光景は、まるで20世紀前半〜中盤にタイムスリップしたと錯覚するような不思議なものだった。北朝鮮は韓国と分裂した1950年代から、技術・産業的な時間が止まり、今日まで至ったのではないか、と考えた。北朝鮮の田舎は、タイムカプセルになっていた。世界を100ヵ国以上旅したが、こんな不思議な国はキューバを除いて初めてだった。いや、キューバのオールドファッションやレトロな側面は、観光地的要素も含んでいたが、北朝鮮の状況は、まさに「時代が停止した場所」だった。

この中国国境から首都の平壌までの区間が、今回の滞在で一番印象に残った。北朝鮮の人々はどこか日本人と顔つきも似ている為か、よもや「懐かしい」という感覚にまで陥った。モノクロ画面で古い日本の映画やドラマ、写真に出てくる情景にそっくりだったからだ。北朝鮮の田舎は、なんとも親しみのある場所だった。

首都・平壌

平壌の市内に着くと、車窓からの景色は一気に都会になった。駅舎はとてもきれいに整備されていて、ホームには、乗客の家族だろうか、多くの人が待っていた。一部、我々と同じ様にツーリストの団体もいた。

北朝鮮の人々は、皆胸元に金日成、金正日(或いは両方)の肖像画が描かれた赤いバッジを付けている。例外なく全員つけていた。私は日本人なので、北朝鮮人と同じ様な顔をしているが、胸元のバッジがないので、彼らからすると他所者だと一目瞭然だろう。私も、たまに見る中国人観光客と市井の人を見分けるのに苦労しなかった。

駅のホームには我々を待つガイドが待っていてくれて、彼らに駅舎の外までエスコートされ、用意されたバスでホテルへと向かった。泊まったのは平壌を南北にも東西にも分ける大同江の中州に聳え立つ30階以上ある超高層ホテルのYanggakdo International Hotelだ。パリで言うシテ島にあたる。超一等地だ。

チェックインして荷物を部屋に置き、泊まった階のロビーから下を見下ろした。平壌と北朝鮮の田舎のコントラストは激しく、平壌はまるで近未来都市の様だった。

翌日から平壌を観光した。

北朝鮮の世襲的個人崇拝思想は、世界、とかく日本やアメリカなどの政治的敵対国から、非難の対象になっている。私も日本で育っている以上、個人崇拝に批判的な思想を無意識に刷り込まれているだろう。だが、今回の北朝鮮訪問では、できるだけフラットな目線で、人々の様子や話す言葉に触れてみたいという思いがあった。

ガイドは遠慮なくなんでも聞いてくれ、と言ってくれたので、現在の体制をどう思うか、少し遠回しに聞いてみた。

印象的だったのは、同じグループのひとりの外国人が「もし国外の国に住めるとしたら、住んでみたいか」という質問をし、ガイドがじっくり考えた末「私はこの国が好きだ」と答えた事だった。彼らにとっては、この国こそが安住の地なのだ。

私の様な外部の人間からすると、幼少期より世襲的個人崇拝の政権下の元で過ごした人々の精神状態を知るのは、決して容易ではなかった。

平壌の街を観光している間、ガイドは北朝鮮の歴史について語った。北朝鮮の歴史を語る上で欠かせないのは、日本の存在だ。北朝鮮の歴史は、第二次大戦に敗戦した旧日本軍が、朝鮮半島を解放したことから動き始める。北朝鮮の開国神話には、日本という絶対的敵国の存在が不可欠なのだ。私が参加したツアーグループに、日本人は私1人だった。ガイドの説明はどれも耳が痛い話ばかりだった。

平壌の市井の人々。彼らはこの路面電車の様なもので移動している。

平壌のバーで、昼からビールを飲む。

こちらが平壌市内の大型スーパーマーケット。3階はフードコートになっていて、韓国風海苔巻き「キンパ」やビビンバの様なものを食べる家族連れの姿がたくさんあった。プロパガンダなのかもしれないが、韓国やその他の国々にある様な、ありふれた日常が、北朝鮮にもあった。


私は北朝鮮という国を、他の幾つもの国を旅していた時と同じ様に、政治問題や国交問題などを抜きにして、ただ1ツーリストとして見てみたかった。

この国の雰囲気は独特だった。唯一無二の国だった。別の時間が流れている、他国から隔絶された様な国だった。旅行者の無責任な好奇心かもしれないが、この独特な雰囲気に、私は大層魅せられた。特に田舎の雰囲気、時代のタイムカプセルの様な雰囲気は、格別なものだった。私が旅を通じて面白い!と感じる瞬間は、見たことのないものや景色、人々の姿を見る瞬間だが、それらのエッセンスがたっぷり凝縮された様な、なんとも愛おしい国だった。

もう一度チャンスがあったら、再訪したい国の一つだ。


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